ハルク・ホーガン

登録日:2020/05/05 Tue 07:29:05
更新日:2023/09/22 Fri 08:14:35
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Let me tell you something, brother



ハルク・ホーガン(Hulk Hogan)は、1953年8月11日生まれの米国のプロレスラー。

本名:テリー・ジーン・ボレア

ジョージア州オーガスタ生まれ、フロリダ州タンパ出身。

全盛期には公称サイズ201cm、140kg級の見事なまでにビルドアップされた筋骨隆々とした肉体を誇っていた。
若い頃から薄かった頭部に金髪の長髪、特徴的な髭面もチャームポイント。
ハゲていった頭部を隠す為にバンダナを巻いていたが、それすらもファッションとしてトレードマークとなっていった。

80年代からのWWF社長ビンス・マクマホンの打ち出した、TVコンテンツとしてのプロレスという戦略を牽引したヒーローであり、その活躍は米国、延いてはプロレス史上で最も成功した男として、現在でもホーガンの名が真っ先に挙げられることからも窺える。

米国で唯一無二のヒーローとなる直前までは新日本プロレスで活躍しており、日本のプロレスファンにとっても忘れ得ぬガイジンであり、ヒーローである。

NWAが世界的な権威であった時代の最後の王者にして、TVを通しても(悪漢)王者であることをアピールされたリック・フレアーとは対極的な経歴、キャラクターながら、共にプロレス興行の主体がTVに移行してからの業界のトップであり象徴であった。

そして、究極的にはプロレスラーという職種のカテゴリー自体も突き詰めるとフレアー型かホーガン型に収斂してしまうというのは、蝶野正洋等の識者が認め、語っていることである。

因みに、リングネームの“ハルク”は、そのままMARVELのあの(・・)“ハルク(The Incredible Hulk)”に由来するのだが、別にホーガン自身は、MARVELの許諾を受けたタイアップキャラクターという訳ではない。
詳細は後述。

主なニックネームは、日本では上記のハルクに掛けた“超人”や古舘伊知郎の実況による“現代のネプチューン”等。
米国では“Incredible”や“Immortal”
自称も含めて使われた“Hulkster”やヒールターンしてからの“Hollywood”等がある。
また、全盛期には“ミスター・アメリカ”とまで讃えられていた。

全盛期の80年代には、後述の『ロッキー3』の出演で顔を売ったのを皮切りに、WWF時代に多数の低予算アクション映画に主演した他、日本でも人気の『グレムリン2』や『特攻野郎Aチーム』にも、本人役で出演している。


【来歴】

幼少期から大柄で、圧倒的なパワーを利用してリトルリーグで活躍。
しかし、子供の頃は太っていたので鈍足で、強打者として活躍していたが、他のスポーツは苦手であったという。
高校の頃からボディビルに打ち込むようになり、更に大学に進んでからは“Ruckus”というバンドを結成し、デカい体でベーシストとして活動していた。

元々プロレス好きで、自分と同じくボディビルで鍛えた肉体美を武器にスター街道を歩んだ“スーパースター”ビリー・グラハムに憧れ、バンド活動で得たオーディエンスとのやり取りがプロレスにも活かせるのではないかと思い、プロレスラーとなることを希望するようになった。

当のビリー・グラハムには弟子入りを断られたものの、ビリーの“ギミック上の兄弟”であり、業界の先達、恩人でもあるエディ・グラハムと、その息子のマイク・グラハムを通じて、米国を拠点としていた日本人レスラーのヒロ・マツダのトレーニングを受けられることになった。
マツダはプロレスラーになるのを諦めさせるべく厳しいしごきを課し、トレーニング中に足を折られてしまったともいうがめげず、77年8月に覆面レスラーの“スーパー・デストロイヤー”としてデビューを飾った。

以降は素顔となり“テリー・ボールダー”や“スターリング・ゴールデン”といったリングネームを使いつつ、南部各地のプロモーションを転戦。
見た目がいいことから、ビリー・グラハム系のベビーフェイスのポジションでプロモーターに使われ、79年には地方タイトルのNWAサウスイースタン・ヘビー級王座も獲得。
当時を代表する世界王者ハーリー・レイスのタイトルにも、幾度も挑戦する権利も与えられていた。
また、後に日本マットで大きな影響を受けることになるスタン・ハンセンとも初対決している。

この頃、巷で人気のTVドラマ『超人ハルク』の主演であるルー・フェリグノと一緒の写真に収まる機会があったが、ハルク役のフェリグノよりも大きな体に注目が集まり、これを機に“ザ・ハルク”をリングネームとするようになる。
しかし、伸び悩んでいたのか一時はマットを去り港湾労働者として働いていたというが、その才能を惜しんだテリー・ファンクやジャック、ジュリー・ブリスコといった業界の大物達に呼び戻されると、これを縁として、79年12月にニューヨークを拠点とするビンス・マクマホン・シニアの主宰するWWFに初登場することになった。


【WWF登場~新日本プロレス時代】

ここで、シニアのアイディアでリングネームを“ハルク・ホーガン”に改める。
シニアは見映えのいいホーガンに期待をかけ、初登場のMSGで若手の実力派のテッド・デビアスに勝利させると、自分のテリトリー内の人気選手達を相手に何と20連勝を上げさせ、ホーガンをベビーフェイスとして絶対的な人気を誇っていたアンドレ・ザ・ジャイアントに対抗し得る肉体を誇るヒールとして大々的に売り出しをかけた。

翌80年には、当時のエース格であるボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦、大観衆を前にアンドレとのシングルが行われる等、テリトリーのトップレスラーとして活躍した。

そして、同年よりWWFと提携を結んでいた新日本プロレスにも参戦するべく初来日を果たす。
米国での活動もあったのでフル参戦では無かったものの、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンに次ぐポジションを与えられ、ボスであるアントニオ猪木とのシングルマッチも行われた。

先輩のハンセンとのタッグで出場した“第一回MSGタッグ・リーグ戦”では決勝まで進出する等、新日本の新たな目玉として活躍するが、翌81年9月に団体間で大物外国人レスラーの引き抜き合戦が横行していたライバルである全日本プロレスへの移籍が発表されたことがあった。
これは、ボビー・ダンカン経由で恩人であるテリー・ファンクの仲介により契約書にサインする段階まで進んでいたとも言われるが、ホーガンはサイン前の契約書を新日本へのギャラ釣り上げの材料に使い、それに激怒したテリーに殴られたとの噂が囁かれていた。(テリーは自著で否定)

結局、全日本は82年に新日本の外国人エースとまでなっていたハンセンを引き抜くことに成功するが、これを受けて替わりにホーガンが外国人エースにまで昇格することになり、日本でもハンセンに劣らぬ人気を獲得していくことになった。
この頃より、ハンセン自身に了解をとって変型ラリアットの“アックスボンバー”をフィニッシュとするようになり、実力の面でもハンセンと並んだ猪木の新たなる最強のライバルとして認識されるようになった。

また、まだ年齢が若かった為に一緒にシーズンを回っていた先輩外国人レスラーへの遠慮から“No.1”を英語でアピールするのではなく、日本語で同じ意味となる“一番(イチバーン)”をアピールとして叫ぶようになり、これが大ブレイク。
コスチュームにも“一番”が染め抜かれ、カオスなテーマ曲まで作られた。
後のホーガンの米国での活躍もあり、一番はNo.1や頂点を意味するニホンゴとして一般にも浸透したという。

こうした陽性のキャラクターから、一貫して怖さのあるヒールを演じたハンセンやシンとは違い、巨漢の外国人レスラーというキャラクターながらベビーフェイスとなり、日本人陣営に加わって猪木ともタッグを組んだり、出戻りの大物ヒールであるアブドーラ・ザ・ブッチャーとも激突したりした。
また、ホーガンというと大味でテンプレ的な動きしか出来ない典型的なアメリカン・プロレスの象徴と捉えられることが多いものの、新日本プロレスへの参加時は意外にも積極的にグラウンドレスリングもこなし、巨体でタイガーマスクのタイガースピンを定番ムーヴとする等、器用な一面を見せている。
デビュー前にヒロ・マツダのトレーニングを受けた下地があったからなのかも知れないが、こうした幅広い対応力がホーガンを後々に業界の頂点に押し上げた要因と分析する声もある。

新日本でのホーガン最大のハイライトといえば、83年の“第一回IWGP決勝リーグ戦”での猪木との決勝戦で、この試合で猪木は今や心技体ともに充実した怪物と化していたホーガンに苦しめられた末に、場外からエプロンに上がった所を、逸早くリングに戻っていたホーガンにアックス・ボンバーで吹っ飛ばされ、そのまま失神KO。(いわゆる“猪木の舌出し事件”)
こうして、誰もが猪木の勝利は決定されていたと思われていた、新日本の純粋なオリジナルフラッグシップタイトルであるIWGP王座の初獲得者の栄冠はホーガンとなったのである。(ただし、現在の様な普通のタイトル扱いでは無かったので旧IWGPの初代王者という扱い。)
一説では、当初は多く人々の予想通りに猪木の勝利が決まっていたとも言われるが、アドリブで展開を変えざるを得ない程にホーガンに勢いがあったのか、はてまた別の人間の思惑があったのか、現在でもマニアには話題の尽きない虚々実々のミステリーである。


【AWA時代】

前述の様に、81年にWWFと提携している新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍なんて話題を振り撒いていたホーガンは本国ではWWFにいられなくなっていたのか、81年よりミネソタをテリトリーとするAWAに参戦していた。
人気の高まっていたホーガンはAWAでもベビーフェイスとして迎えられ、AWA王者ニック・ボックウィンクルのタイトルにも挑戦するばかりか、幾度も幻の勝利までも上げた。

しかし、AWAのボスで小柄ながら技巧派として鳴らしたバーン・ガニアはボディビル出身の大男であるホーガンを否定し続け、頑なにタイトルの移動を認めなかった。
世界王者の獲得こそならなかったものの、観客や団体からのホーガンの支持は大きく、後に親友の間柄となる同じビルダータイプで、俳優や政治家としても有名となるジェシー・ベンチュラとの因縁や、WWF時代には敵対していたアンドレとのタッグ結成、超肥満体の重量級レスラーであるジェリー・ブラックウェルを投げるのに挑戦するボディスラムマッチ等で熱狂を呼ぶ。

そして、この時点でもプロレスラーとして十分な成功を納めていたホーガンだったが、決定的に運命を花開かせることになったのが、82年の映画『ロッキー3』への出演である。
同作内でホーガンは、ボクシングのヘビー級王者として人気者となったロッキーとエキジビションマッチを行うプロレスラーの“サンダーリップス”を演じた。
後の現実世界での自分の姿を予見したかのような“ド派手で怪力無双の大男”の姿は、ゲスト出演ながら大きな話題を呼び、ホーガンの世間での知名度を飛躍的に高めることになった。
尚、ホーガン自身の弁によれば、シニアがこの出演を認めてくれなかったことがWWFからの離脱の原因であったという。


【WWF黄金時代】

83年12月、株式を買い取ることで合法的にシニアよりWWFを譲渡させて後継者となったビンス・マクマホンJr.は、それまでのテリトリー毎に分かれた独立団体で各地のプロモーターが取り仕切ることで行われていた昔ながらのプロレス興行の形式を、TVを利用して一つの団体であっても従来のテリトリーを越えてコンテンツとして興行を提供し、会場に足を運ぶ替わりに試合中継を見たい人間にコンテンツを購入させるという、PPV形式による新時代の興行の構想を打ち出した。

そして、TV越しでも見映えがする、自身が求める新時代のヒーローとして白羽の矢を立てたのが、米国ではAWAへと移籍していたホーガンだった。
ビンスは83年に来日中のホーガンに接触すると、その場で専属契約を交わすことに成功。
バーン・ガニアは、この突然の引き抜きに激怒したとも言われるが、上記の通り煮え切らないポジションに収まっていたホーガンにとっても、TVを通して本拠地であるニューヨークを越えて全米(全世界)へとテリトリーを広げる構想を実現する為の駒を手に入れたかったビンスにとっても、この契約はWIN-WINとなり、事実、ここからの数年で米国のプロレスビジネスの在り方は様変わりすることになるのであった。

84年1月に鮮やかなレッド&イエローのコスチュームでMSGへと再登場を果たしたホーガンは、実力者アイアン・シークを下してWWF世界王者を獲得。
2月には、NWAの総本山であるセントルイスでマスクド・スーパースターを相手に防衛を成功させると、タブーも慣習も何のそのとばかりにテリトリーを越えた全米サーキットを実現させてホーガンは各地で防衛を重ね、その姿がTVでお茶の間に提供された。

ホーガンはタレントとしても売り出され、シンディ・ローパーとMTVに出演する等して、プロレス以外でも圧倒的な存在感とカリスマ性を振り撒き、瞬く間に全米の顔となっていった。
また、この頃のホーガンは意図的に玄人受けを捨てた“わかりやすい”プロレスに終始し、素人や子供にも理解し易い世界を構築して、チケットを購入して会場に足を運ぶまではしない層にもプロレスを伝道していった。

この、ホーガン人気を得て、WWF(というかビンス)は、85年3月にレッスルマニア(WrestleMania)第1回大会を開催する。
今や、WWEの主宰する業界最大のプロレス大会として認識されている同大会だが、そもそもの大会名がWrestling(レスリング)+Hulkamania(ハルカマニア=ホーガンファン)を合体させた名称であり、つまりはホーガンに捧げられた名称であった。

こうして、業界の頂点に立ったホーガンは業界の先達にしてトップであった、元NWA世界王者のハーリー・レイスやテリー・ファンクをも防衛記録の糧とするまでとなった。

人気絶頂期に開催された87年3月のレッスルマニアⅢでは9万3173人という観客動員数を記録(劇場公開も含めると推定数百万人が視聴)し、230kgに達していたアンドレの巨体をホーガンが投げた場面は大会の歴史に残る名場面として現在でも記録されている。

88年2月に、そのアンドレに敗れて王座を失うがホーガン人気は衰えず、3月のレッスルマニアⅣで抗争相手であったランディ・サベージの王座戴冠をアシスト。
ベビーに転向したサベージとは“メガ・パワーズ”を名乗ってタッグを結成。
数々の強敵を破るも、プライベートでの不仲もあってか喧嘩別れし、翌89年4月のレッスルマニアⅤでの決着戦でサベージを破り、王座に返り咲いた。

90年4月1日のレッスルマニアⅥにて、インターコンチネンタル王者アルティメット・ウォリアーに敗れて王座より陥落。*1
続いて、同月12日に新日本、全日本、WWFの合同による日米レスリングサミットが東京ドームで開催*2され、ホーガンも約7年ぶりに来日。
WWF王座戦やジャイアント馬場とアンドレのタッグよりも後に組まれたメインイベントにて、今や日本最強のガイジンレスラーとなっていた先輩のスタン・ハンセンと一騎討ちを行い勝利。
また、この対戦では日本での懐かしのフレーズである“一番”を復活させ「アックスボンバーイチバン、ウェスタン・ラリアットニバン」と挑発するサービスを行い、決着も恩返しのアックスボンバーであった。

翌91年にはWWFと提携していたメガネスーパーがスポンサーとなり巨額の資金があったSWSに来日し、エースの天龍源一郎とのシングル戦とタッグ結成も行った。

しかし、91年6月にペンシルベニア州体育協会公認ドクターだった、ジョージ・ザホリアンを被告とする、所謂“ステロイド裁判”が起きる。
これは、88年ソウルオリンピックでのベン・ジョンソンのメダル剥奪事件により、世間で俄に高まっていたアナボリックステロイドの医療目的以外でのスポーツ選手への違法な処方への厳しい目に絡み、顧客リストに多数のWWFのスター選手の名前が含まれ、更にはザホリアン本人からホーガンやビンスにも売ったと証言したことから、事件はホーガンのスキャンダル、やがてはビンスへの疑惑へと転じていくことになる。
ホーガンもビンスも疑惑を否定し、ホーガンはプロレスのリングからも遠ざけられたものの疑惑は止まず、ビンスと袂を分かっていた元WWFの所属選手達による、WWFのバックステージでは禁止薬物ばかりかドラッグも蔓延している……とする、スキャンダラスな証言が真偽も定かでは無いままに連日報道され、更に別のWWFに纏わる疑惑を呼び込んだ。
また、この事件ではホーガンのプロレス入りのきっかけであり、デビューしてからは友人として付き合っていたビリー・グラハムがプロレス界に横行するステロイド乗用の被害者として、ボロボロになった肉体を晒して被害を訴え、沈黙を続けるホーガンや無実を訴えるビンスを糾弾した。

そんな中、ビンスはウルトラC級の逆転劇として92年4月のレッスルマニアⅧでのホーガンの引退疑惑を短期間で仕掛け、これにより世間の風向きが変わった。
6万2167人の観客を集めた同大会では、サベージがフレアーを破りWWF世界王者を獲得する等もしたものの、主役は引退疑惑のあるホーガン。

しかし、次世代のスター候補として台頭してきたアンダーテイカー、セッド・ジャスティス(セッド・ビシャス)、ブレット・ハート、ブリティッシュ・ブルドッグ、ショーン・マイケルズといった面々をビンスが物色する中、当のホーガンは引退を望んでおらずビンスとの関係は悪化していき、93年に観客や視聴者には何も告げずにホーガンはWWFを去ることになった。


【WCW入団~NWO結成】

こうして、米国マットから姿を消したホーガンが次に姿を現したのは、古巣である新日本プロレスだった。
93年5月の福岡ドーム大会で、IWGP王者グレート・ムタ(武藤敬司)に勝利。
当時の新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、そのせいで90年の日米レスリングサミットでは睨まれる等もしていたことを考えると、そこに幾ら古巣とはいえ、WWFの象徴であったホーガンが来訪することは考えられないことであった。
ホーガンは9月にはムタと組んでヘルレイザーズと対戦。
翌年1月の東京ドームで藤波辰爾と対戦している。

そして、これが縁となった訳ではないのかもしれないが、94年に自身の主演ドラマを撮影していたディズニー・ワールド内で収録を行っているWCWと契約を果たして、米国マットでも復帰を果たす。
当初は、WWF時代と同じくベビーフェイスのポジションで、WWFから出戻っていたフレアーと戦ったりしたものの、今さら新鮮味の無いカードで起爆剤とはならなかった。

そんな中、96年7月にホーガンが消えた後のWWFでスターとなったものの、ビンスと喧嘩別れして離脱して外敵ギミックで登場するも、いきなり方向性を見失っていたスコット・ホールケビン・ナッシュの二人に声を掛け、絶対的ヒーローの立場であったハルク・ホーガンとして初のヒール転向を 果たすと、nWo(new World order)を結成し、リーダーの“ハリウッド”ハルク・ホーガンを名乗り、悪の限りを尽くした。

WCWの運営を任されていたエリック・ビショフと結託しての、エンタメ路線のアメリカンプロレスでも常識外れの放埒な振る舞いにより社会現象となり、ブラック&ホワイトのコスチュームに身を包んだホーガンのイメージも再生された。

しかし、nWo人気により追い詰められたWWFだったが、ビンスは自らのポジションへの不満を直談判してきた一介の中堅技巧派レスラーの提案に乗ったのを皮切りに、過激で虚々実々のソープドラマをプロレス中継の枠内で行うアティチュード路線を打ち出し、徐々に視聴率を取り戻していく。
特に、件の中堅技巧派レスラーがギミックチェンジを果たしたストーン・コールド・スティーブ・オースチンを主役に据え、それまで番組内では良識的な実況アナウンサーを演じていたビンスは、ステロイド裁判で大袈裟に報道された悪のオーナーとしての顔を明らかにして、自らが番組のやられ役となった。
他にも、それまでは中堅止まりだった選手や伸び悩んでいた若手にキャラを与えて登用し、成功したなら取り立てるという方法で短期間でタレントの顔触れを変えていき急速に新陳代謝が進み、気付けば昔ながらの顔ばかりで古臭いイメージとなっていたのはWCWとnWoの方であった。

WCWでも、新しいイメージにチェンジしたスティングや、中年からの再デビューでブレイクしたダイヤモンド・ダラス・ペイジ、何よりもホーガン型の究極系とも呼ぶべき、超人類ビル・ゴールドバーグといったNWOだけではないスターも誕生していたのだが、とにかくシナリオを生み出す力がWWFに比べて圧倒的に不足しており、ジリ貧となっていった。

ホーガン自身も疲れを感じたのか、nWo崩壊後はフェードアウトしていき、01年のWCWの崩壊前に団体を離脱したのだった。

WCW崩壊後、自身と組んだこともある悪徳マネージャー(キャラ)として有名なジミー・ハートが旗揚げしたXWFのオープニングにも参加するが継続参戦とはならず、程なくしてXWFも活動を停止した。


【WWE復帰】

01年のWCWとECWの崩壊後、それらの団体のタレントが多数WWEに参戦するようになっていたが、02年2月にビンスは、かつての自分の最大の障害となったnWoの復活を打ち出し、ホーガン、ホール、ナッシュを復帰させた。

nWoの復活に対し、WWEの顔であるストーン・コールドとザ・ロックが組んで立ち向かうも返り討ちとなり、決着戦となる02年3月のレッスルマニアX8で、アイコンvsアイコンとしてホーガンとロック様のシングルマッチが組まれる。
元々、ヒールであるnWoに対するベビーフェイスのロックというコンセプトの戦いであったが、大観衆はWWEに復帰したホーガンを大歓迎し、入場時の声援でロックを上回った。

結局、シナリオ通りロックの勝利に終わったものの、入場や試合途中で反対にロックにブーイングが飛ぶ有り様で、急遽として試合後にホールとナッシュにホーガンを襲撃させ、それをロックが助けるシナリオとしてホーガンを即座にベビーフェイスに転向させたのだった。

その後、独立記念日には売り出し中のエッジとのコンビでWWEタッグ王座に就くも、サマースラムを前に、これまた売り出し中のブロック・レスナーに敗れて一時的に姿を消す。

しかし、冬となって姿を見せ始めると、過去の因縁の清算としてレッスルマニアⅩⅨでビンスとノー・ルールマッチを行い勝利する。

03年5月には、上記の対決の後で解雇されてしまったホーガンに替わり、彼に憧れたニューヒーローという体ミスター・アメリカが登場し、ビンスと丁々発止のやり取りをスマックダウンの番組内で繰り返した。
尚、ビンス自身が質問に立った嘘発見器により、ホーガンとは別人であると確認されている。

しかし、それからミスター・アメリカも程無くしてフェードアウト。

以前の様に節目に再来日し、新日本プロレスのドーム大会にワンマッチのみ出場して蝶野に勝利。

05年4月にWWE殿堂に迎え入れられ、ロッキーこと、シルヴェスター・スタローンがインダクターを務めた。
そのままレッスルマニア21にも登場し、7月に選手として復帰すると、ショーン・マイケルズと抗争を開始し、レジェンドvsアイコンと打ち出された8月のサマースラムで勝利して決着。

翌年のサマースラムでもレジェンドvsレジェンドキラーとしてランディ・オートンと対戦が組まれるが、これにも勝利している。

続いて、次のレッスルマニア23を見据えてストーン・コールドとの対決が期待されたが実現せず、アンドレとの伝説の戦いから20周年としてビッグ・ショーとの対戦も予想されたが実現せずに再びフェードアウトした。


【現在まで】

その後、07年に単発復帰。
09年にオーストラリアで新団体を旗揚げしたり、TNAに参戦する等したが持続せずにセミリタイア状態となっていた。

14年2月にホストとしてWWEに復帰したが、15年7月に過去の娘の交際相手(アフリカ系アメリカ人)への差別発言が原因で解雇。
WWE殿堂から名前が消され、関連商品も販売停止となっていたが18年7月に登録が復活。

19年4月には弟分のブルータス・ビーフケーキのWWE殿堂入りのインダクターを務めた。

20年nWoとして、二度目のWWE殿堂入り。


【得意技】


  • ランニング・レッグドロップ
米国での主なフィニッシャーで、相手のパンチを食らう等、劣勢状態からハルク・アップ(拳を握りしめ体を震わせながら起き上がるムーヴで、この間は完全無敵)で復活→相手のパンチを受け止めて指差し「You!」の掛け声と共に人差し指を振って効いてないアピール→狼狽した相手のパンチを受け止め、カウンターの2~3パンチで反撃→ロープに追い詰めた相手を反対方向に振り、返ってきた所にビッグブーツ→自らロープに走ってアピール付きのレッグドロップ
……が、ホーガンの絶対的な勝ちパターンとなる。
日本ではギロチン・ドロップと呼ばれることが多い技。
ハルクスター・レッグドロップ、ゲーム等ではアトミック・レッグドロップの名称が付けられている場合も。
様式美の極致だが、巨体の為に実際の説得力も高い。


  • アックスボンバー
日本での主なフィニッシャーで、肘の所で腕を直角に曲げた状態での変形のラリアット。
当初は、腕を立てて肘で相手の額を打ち抜く技であると説明しており、あくまでもハンセンのウェスタン・ラリアットとは違う技と説明し、ハンセン本人に使用の許諾を求めた時も決して単なる物真似とは違うと説得したと言われている。(現在でこそ誰でも使う技となったラリアットで、その事にも寛容なハンセンなのだが、当時はウェスタン・ラリアット自体が世に登場してから間も無くの頃で、ハンセンのみのオリジナル技と認識され、プロレス界の慣例でオリジナル技を他の人間が使うのはタブー視されていた。)
後には額を狙うのは危険が伴うので、腕を水平に倒して首の辺りを狙う通常のラリアットに近い技となっていった。
ホーガンは巨体なので破壊力もラリアットの本家であるハンセンに負けず劣らず強力であった。
しかし、米国では近年はともかく以前はラリアット系の技が“リアリティーを感じない”という理由で人気が無く、当人も他の選手も使うクローズラインとして割り切って、繋ぎ技としていた。
日本では、上記のレッグドロップを返させておいて敢えてアックスボンバーで決めていることからも、ホーガンにとっても“リアル”な技と認識しているのが解る。


  • カリフォルニア・クラッシュ
所謂オクラホマ・スタンピードやアバランシュ・ホールドと呼ばれる技で、ボディスラムで持ち上げた相手を肩に担ぎ、前方に走って豪快に倒れ込みながら叩き付けていく。
アックスボンバー開発以前のフィニッシャー。


この他、怪力を利用したネックハンギング・ツリーやベアハッグをレパートリーとしていた。
自身の技では無いが、3カウントやギブアップに比べて曖昧な決着となっていたスリーパーホールドで絞められた際に、落ちたかどうか確認するために腕を三回上げて、三回目でも上がらなければ落とされたと判断されて決着の決めごとを発明した(最初にやった)のはホーガンだという。


【その他】


  • 娘は歌手『ビーチシャーク』と『ダブルヘッドジョーズ』のヒロインとしても知られるブルック・ホーガン。
    2005年から2007年にかけて放送された『Hogan Knows Best』はブルックのキャリア固めの為に企画されたのが、仲良しセレブ一家を視聴者がホッコリ見守る予想以上の人気番組となったもので、初来日のプロモーションにも帯同する等、パパぶりをアピールしていた。
    ……が、08年によりにもよって、そのブルックの友人であるクリスティアーヌ・プランテがホーガンとの不倫を暴露。
    ブルックとクリスティアーヌの友情は崩壊。ホーガンの家庭も崩壊し、スーパースターは一転して離婚と共に持ち家から放り出され、財産も慰謝料として妻のリンダに奪われたのだった。

  • 10年には22歳差の年下妻と再婚したが、12年にはプライベート・セックス映像を流出させられてしまっている。

  • 新日本参戦時にはアンドレとは不仲であるとファンから誠しやかに囁かれていたが、外国人レスラーのケアも行っていたレフェリーのミスター高橋は否定しており、実際に気難しいアンドレは信用した相手にしか自分を投げることや持ち上げることを許していなかったが、ホーガンは当時からそれを許されていた一人である。
    ホーガンも、自身の体重でも無理なく投げれるようにするアンドレの技量とプロ意識の高さを評価する発言を残している。
    一方、共にスターであっても、自己アピール力に長け、自らサービスに務めたホーガンと、本質的にはナイーブで、後には好奇の目で見てくるファンを蹴散らしていたアンドレとは対照的な面があったのも事実である。


【ハルク・ホーガンをモデルにした創作キャラクター】

プロレス界でも随一の人気と知名度を誇るだけあって複数の作品でパロディやオマージュが行われており、
下記に挙げるような本人をモデルにしたキャラ以外にも、「イチバン」コールや特徴的な指差しポーズ、シャツを引き裂くパフォーマンスなどがオマージュされる事が多い。

漫画

  • アホーガン(やっぱ!アホーガンよ)
コミックボンボン誌伝説の下ネタ漫画の主人公。

正確には読者投稿された超人案にホーガンモチーフのものが2つあったため、それを組み合わせてデザインされたのがネプチューンマンである。

  • ハルク・ホーガン(プロレススーパースター列伝)
厳密には本人役に近いが掲載。
本漫画では、その恵まれた肉体ゆえ周囲からプロレス入りを勧められるも、場末の地元の興行に魅力を感じずロック・ミュージシャンとしての大成を目指していたが、偶然眼にしたアントニオ猪木vsモハメド・アリ戦の宇宙中継で一見退屈に見えるその裏での熾烈な鍔迫り合いを見抜き、打倒猪木を目標にギターを捨ててプロレスデビューした…とされている。

ゲーム

古今東西の漫画・実在人物のパロディキャラが多数登場する格闘ゲームで、マッスルパワーのモチーフはホーガン。
ことあるごとに宣言する口癖である「ナンバーワン!」も「イチバーン!」のパロディで、ご丁寧にもわざわざ数パターンの「ナンバーワン!」が収録されている。
当初の見た目はあまりにも「そのまんま」過ぎたが、流石に肖像権に引っかかると判断されたか以降のシリーズでは髭が無くなっている。

  • トム・アンダーソン(バーニングファイト)
2面の中ボス。噴水を破壊しながら登場し、「イッチバーン!」の掛け声までしっかりやってくれる。
主な攻撃はアックスボンバーとレッグドロップであり、見た目は上記のキャラクター達に引けを取らずそっくりなのだが、
ゲーム自体が某動画サイトのせいで鎖マンの方が有名なんじゃないかってほどマイナー寄りなせいもあってか、海外版やアーケードアーカイブスでも特に修正を受けること無く販売されている。

  • キルベイン(Saints Row The Third)
敵対ギャングの一つ・ルチャドールズ(スペイン語でプロレスラーの意)のボス。
覆面レスラーであるが、マスクを取った素顔はホーガンに似ている。ついでにステロイドを使ったという設定も

なお、このキルベインに恨みを持ち、利害一致で主人公に協力してくれるプロレスラー「エンジェル・デラムエルテ」の声を演じているのはハルク・ホーガン本人
作中では、聞き耳を立てるようなアクションをするシーンがあるが、これはホーガンの決めポーズであり、いわゆる中の人ネタである。

このゲームの現代編における対戦相手の一人。主人公の高原日勝が対戦相手を探していると耳にし闘争心に火が付く。
得意技はダブルラリアットの「M(マックス)・ボンバー」、「G(ジャーマン)・スープレックス」と大きく異なっているが、
風貌、来歴、「イチバ~~~ン!!」など、意識したであろう点は多い。時代を感じさせる。

このゲームにおいてCD再生でしか見つからないレアモンスター。
パフォーマンスに定評があるというレスラーな解説だが、素体は仙人風のモンスターであるアーケロ種というギャップが特徴。

水文明のクリーチャー。ダブルミーニングとして、巨大な二つの「砲丸」を得物としている。
フレーバーテキストはもちろん「イチバン!!」で、アニメでも召喚された際に「イチバン!!」と叫んでいる。
パワーアップした姿に《イチバンの覚醒者オーシャン・G・ホーガン》がある。また、呪文《ホーガン・ブラスター》はハルク・ホーガン同様「殿堂入り」している。

ヒールポケモン。ヒールは勿論、悪役プロレスラーの意味。
初登場した『ポケットモンスター サン・ムーン』で使用したZ技「ハイパーダーククラッシャー」を決めるとイチバンのポーズを披露する。


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最終更新:2023年09月22日 08:14

*1 しかし、ウォリアーはホーガンに代わる所か続くスターにはなれず、この選択をフレアー等も批判している。

*2 ビンスが米国に引き続き、日本をも自身の傘下に加えようとした思惑に反発した馬場が、代案として坂口の協力を取り付けて日米メジャー団体による合同企画として実現。