ジャッキー・チェン

登録日:2020/01/29 Wed 18:36:06
更新日:2024/03/20 Wed 22:11:34
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■ジャッキー・チェン


『ジャッキー・チェン(英語名:Jackei Chan/混合名:Jackei Chan Kong Sang/漢字名:成龍(シン●ルン)は、1954年4月7日生まれの、香港出身の俳優、映画監督、歌手。
出生名は(チャン) 港生(コンサン)(※家系図上の本名は(フォン) 仕龍(シルン) )。

なお、姓は日本では“チェン”として知られるが、中国語圏で多く用いられる広東語だと本来は“チャン”となる。日本だと“◯◯ちゃん”に聞こえるという理由から、アクションスターに相応しい呼び名として、本名の陳の北京語読み=Chenから“チェン”を用いることにした。


香港出身の世界的にも名高いアクションスターであり、出演作品に於ける数々の逸話によっても知られる“生きる伝説”である。

香港映画界に突如として現れた不世出の天才と呼ばれた大スターブルース・リーの死後に現れた香港映画史上最大のスターであり、
主演でありながら誰よりも危険なスタントに挑むと共に、自身が好きな三大喜劇王(チャールズ・チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイド)のエッセンスを取り入れた、主人公が格好いいだけのヒーローだった、リー以来のマーシャルアーツ映画の文法に大きな変革をもたらしたことで知られ、80年代には、既にアジアを代表するスーパースターとして尊ばれるようになる。

特に、20代~30代までの全盛期とも呼べる期間に残した数々の主演作品に於いては、常に飽くなき挑戦により驚異的なスタントを幾つも成功させる一方で、失敗により命を落としかけたことも多数

90年代中頃には、80年代では失敗した香港映画界全体の目標でもあり、早逝によりリーですら果たせなかったハリウッド進出を成功させ、40代にして特殊効果偏重だった米国映画界の常識に、生身のアクションの衝撃を見せつけて喝采を浴びた。

00年代以降は加齢もあってか、度々に引退を口にしているものの、尚も衰えぬアクションへの欲求からか、幾度も引退を撤回している。

本国での愛称は大哥(ダイガウ)(“兄貴(ビッグブラザー)”の意)。

妻は台湾出身の元女優ジョアン・リンで、息子はシェイシー・チャンである。




【出生】

1954年4月7日、イギリス領香港ヴィクトリア・ピーク生まれ。
フランス領事館邸内の小屋で、領事館の住み込み使用人、料理係として共働きしていた、陳 志平(チャン シーピン)(チャールズ・チャン)と陳 月栄(チャン ユエロン)(リリー・チャン)夫婦の一人息子として生を受ける。

夫婦にとっては、共に40を過ぎてからの息子であり、当時は母胎の負荷への配慮が充分でなかったのか、出産を早められることもなく妊娠12ヵ月もの過期産となってしまい、高齢出産の上に胎内で5680gにも成長していた息子を産み終えたユエロンは、その直後に気絶したという。

幸いにも母子共に大事は無かったものの、貧しい共働きの夫婦には、二人合わせての年収の二倍ともなる、入院費用の500ドルを払うことが出来なかった。
そんなチャン夫婦に対して、子供の居なかった担当医は、入院費用の免除と、更に詫び金の1,500ドルで生まれてきた赤ん坊を養子にくれるようにと頼んできたという。

父のシーピンも相当に悩んだとのことだが、親類の説得と尽力もあって、何とか入院費用の工面が出来、晴れてチャン家の一人息子となった大きな赤ん坊は“港生(コンサン)”と名付けられることになった。

父のシーピンは洪家拳法の達人であり、息子が正しい精神と強さを持った男になってくれるようにと願い、物心ついた頃から息子にカンフーの手解きをした。
つまり、実父がジャッキーの初めての武術の師匠である。
そんな風に、厳格だった父親に対して、母親は常に息子に優しかったという。

……しかし、父の願いとは裏腹に幼少期のコンサンは手の付けられない程の悪童で、父から“大砲(ポーポー)”の渾名を付けられていた。

特に爆竹遊びを好んで、道の真ん中で爆発させたり、同級生の女の子達のポケットに火の付いた爆竹を捩じ込んでは、人々が驚く様を見て喜んでいたという。

学校では勉強には全く興味を示さず、得意なのは体育と昼食だけという腕白小僧で、ジャッキー曰く、後に撮影現場でも発揮された立ったまま寝られる特技は、この頃に罰として廊下に立たされていた時に覚えたという。
悪知恵も働けば度胸もあり、母親に電車代を貰っては毎日のおやつ代に使ってしまい、ヒッチハイクで学校に通っていたという。

……結局、一年生で小学校をクビになる程の問題児であったために、
折角、小学校にまで通っていたのに陸に読み書きを覚えられなかったそうで、このことは成人するまで解消されなかった。


……尚、ジャッキー自身が真実を知ったのはずうっと後のこと(香港返還後)となるのだが、両親には大きな秘密があった。

父の本名は房 道龍(フォン ダオロン)で、中国本土ではカンフーの腕を買われて国民党軍のスパイとして活動していた。
日中戦争の頃には共産党との内戦により、二人の息子を捨てて上海に逃れねばならなかったという。
日本軍にも追われる身であったが、銃の暴発を起こして任務を解かれ、その後は税関警察官として働いていたという。

そして、上海にやって来た父が捕らえたのが戦乱の時代の中で阿片の運び屋や賭博に手を染めていた“その道”で知られる“姉御(黒道大姐)”であった陳 麗麗(リリー・チャン)=後のジャッキーの母で、彼女の身の上に同情する内に愛情が芽生え、国共内戦を避けて香港に逃れてきていたのだという。
母にも前の夫との間に二人の娘が居たが、共産党の追及を避ける為に娘達を残し、二人だけで香港に逃れてきた。
二人は過去を封印して、ジャッキーを初めての息子として扱ったが、香港の返還が予定通りに決まった頃に真実を明かした。

つまり、ジャッキーが生まれる以前に父には二人の息子が、母には二人の娘が居たといい、この複雑な時代の中で離ればなれになった異母兄や異父姉達ともジャッキーは後に顔を合わせている。


【中国戯劇学院時代】

コンサンが学校をクビになってから間も無く、両親が身を寄せていたフランス領事館が閉められることになり、世話をしてくれたフランス領事からは、替わりにオーストラリアのアメリカ領事館で働くことを薦められるということがあった。

給料もずうっと良くなると言われたものの、条件は夫婦二人のみで子供は連れていけないとのことで、これにはユエロンは反対し、貧しくても親子三人で暮らしたいと夫に泣きついた。

再び親類を頼ったチャン夫婦に対し、親類はコンサンを京劇の養成学校である“中国戯劇学院”へと入学させてはどうかと提案する。

後日、フランス領事の計らいでお金を出して貰い、誕生日プレゼントとしてカウボーイのコスチュームと玩具の拳銃を買って貰い、おめかしして最初で最後になるかもしれない家族写真を撮ったコンサンは、父親に連れられて初めて学院を訪れることになる。

僅か7歳で物心ついたばかりであったが、学院の様子を見たコンサンは自らの意志で入学を決め、最も期間の長い10年コースを選択するが、これが本人曰く「地獄の始まり(意訳)」となった。

学院への入学と共に、コンサンは“ユエン・ロー”の芸名を戴くことになる。

学院の実態は、現代から見ると有り得ないレベルの超スパルタ式であり、入学した少年達には朝5時に起床してから深夜0時までアクロバットや武術のギリギリのカリキュラムが敷かれ、練習が終わった後も横暴な先輩からの苛めにも耐えねばならない……と、常に緊張を強いられる辛い毎日であった。

持ち前の運動神経と負けん気で、それでもメキメキと頭角を現していったコンサンことユエン・ローだったが、この間に両親との辛い別れも経験することになる。

父シーピンは、予てからの約束通りにコンサンが学院に入って間も無くにオーストラリアへと渡っていたが、母ユエロンの方は息子を心配して香港に残り一週間毎に会いに来てくれていたものの、二年が過ぎて遂に父の許へと向かわざるを得なくなり、コンサンは一人ぼっちとなってしまったのだった。

学院長のマスター・ユーは、コンサンを養子(ゴッドサン)として迎え入れて代わりの保護者となってくれたものの、この時の経験を後のジャッキー本人は“両親に捨てられた”と述懐しており、当時のコンサン少年が如何に深く哀しみ、悩んでいたかがうかがえる思い出である。

また、養子になったことで他の学院生達のやっかみを受けることにもなったのだが、実際には良いことなんか無く、養父であるマスターは“息子”に対して、宣言通りに誰よりも厳しい指導を課したのだった。


【七小福】

そんな境遇にあっても順調に腕を磨いていったコンサンことユエン・ローは、学院でも選抜中の選抜である“七小福”に数えられるまでになっている。
メンバーは、ユエン・ロン(サモ・ハン・キンポー)、ユエン・ロー(ジャッキー・チェン)、ユン・ピョウ、ユエン・ワー、ユエン・ケイ、ユエン・モウ、ユエン・タイである。

しかし、この七小福が結成された70年代後半は、世間での映画産業の発展に反比例するように、由緒ある古典芸能である筈の京劇は、どさ回りの大衆演劇やサーカスの見世物程度の扱いとなって客入りが減り続けており、実際の仕事も各地のお祭りでの出し物や、メンバーは子供であるにも関わらずナイトクラブのショーに出演させられるという有り様で前途は暗かった。

そんな中、七小福のリーダーであった“ビゲストブラザー(大大哥)”のユエン・ロンが練習中に足を骨折。
数ヶ月を経て戻ってきた時にはブクブクと太ってしまっており、本人は腕は落ちていないと主張*1するも聞き入れられず、そのままクビになってしまうという事件があった。

予てより、優等生であり特別に目を掛けられている立場でありながら*2、厳格すぎる学院での生活に不満を抱え、度々に反発していたユエン・ロンは、卒業していった先輩達より話を聞いていた映画業界へと進むために学院を去っていった。

尚、その後も衰退し続けていった京劇だが、2010年にユネスコの無形文化遺産に登録され、現在では保全への道が確保されている。


【スタントマンとして】

ユエン・ロンが消えた後は、自分がメイン級となって舞台に立てるようにもなっていたコンサンことユエン・ローであったが京劇の需要は狭まる一方で、学院の方針でコンサンを初めとした学院生達は映画のジュニアスタントマンもこなすようになっていたが総じてギャラは安く、役者としての地位は低かった。

それでも自由を求めたコンサンは、約束通り10年で学院を卒業。
事情を察していた実父からはオーストラリアに来るように薦められるも、コンサンはこれを固辞。
こうして、コンサンのユエン・ローとしての人生には一つの区切りが付いたのだった。(ただし、武術指導者としてのクレジットでは後にもこの名前を使用している。)

自伝によれば、この時期に初めての恋人を得るも、相手は満州族の良いとこのお嬢さんで由緒正しいスターの家系だったことから、相手側の両親の反対を受けて別れることになったという。

捨て鉢になったコンサンは、この頃に命綱無しで三階から飛び降りて着地するスタントを成功させて“龍虎武師(龍と虎の魂を持つ達人)”という最高の称号を叫ばれるも、
当時は前述の通りの理由からコンサン以外にも同じく京劇畑から映画業界に進出を企てる人間が多く、結果的にスタントマンの数が溢れている中では、如何に技術が優れているコンサンでも安定した仕事が得られなかった。

そんな中、可愛い弟分(リトルブラザー)で、未だ学院に残っていたユン・ピョウから相談を受けたコンサンは、自分達より先に卒業したユエン・ロン……今ではサモ・ハン・キンポーを名乗っていた、かつてのビゲストブラザーの紹介を受けて、たった一作の映画(『ドラゴン危機一髪』(71年) )で、それまでの香港映画界の常識を変えて大スターとなっていたブルース・リーのスタントに揃って参加することになった。

この時にも持ち前の闘志を燃やしたコンサンは、誰もが尻込みをした、室内からリーの蹴りを受けて障子を突き破って飛び出し、数フィートも飛んでから地面に落下するという、大きな見せ場でのスタントを成功させ、リーに確りと顔を覚えられることになる。(『ドラゴン怒りの鉄拳』(72年) )


若く、才能のあるコンサン達をリーも気に入り、続くハリウッド進出も兼ねた大作『燃えよドラゴン』(73年)にも“元”七小福メンバーを自ら起用。

同作でのコンサンは地下基地で首を折られる役、長棍で顔面をしばかれる役、ヌンチャクで顔面を打たれてプールに落ちる役……と、同じ人間であることを悟られる可能性がありながらも三度も登場しており、リーからの推しがあったことがうかがえる。
最後のヌンチャクを使うアクションでは、アクシデントで思いっきりコンサンの顔面にヌンチャクが入ってしまい、リーは哀れ紫に腫れ上がったコンサンの顔を見る度に謝ってきたという。

また、兄貴分のサモ・ハンは本編の撮影が終わった後で撮影されたオープニングの組み手シーンの相手役を確りと顔出しで務めている。
尚、このシーンにてその後の総合格闘技界でお馴染みになったオーブンフィンガーグローブが登場している訳だが、これはリー自身が考案し、この組み手のシーンから世界中の格闘技道場に広まったアイテムである。
また、両者共にベースはカンフーでありながら、試合の決着が腕ひしぎ十字固めだったことは、総合格闘技というジャンルその物の始祖となったとも言われている。

そして、兄貴分達よりは目立っていないが、ユン・ピョウの出演も2カット確認出来るという。

尚、前述の通りの経緯から、中盤のリーとオハラ戦にて繰り出されるサマーソルトキック等のアクションはユン・ピョウがスタントしていると真しやかに囁かれていたが、実際にはサマーソルトキックを初めとした、リーにも不可能な空中に舞い上がっての回転系アクションは全て、同じく“元”七小福のユン(ユエン)・ワー*3が吹き替えているとのこと。

大ヒット間違いなしの大作に関わったことで、曲がりなりにも低予算映画で主演作を得られるようになる等、コンサン達の前途も明るくなってきたと思われていたが……。


【ジャッキー・チェン誕生】

そんな『燃えよドラゴン』の公開直前の1973年7月20日にブルース・リーが急逝。

香港映画の流行を剣戟からマーシャルアーツに塗り替えた革命児にして、不世出の大スター、そして恩人の死は、コンサン達に哀しみと共に、再び日照りをもたらした。

リーの誕生で大ブームとなったマーシャルアーツ(カンフー、アクション)映画だったが、香港の人達はリーの死を思い出したくないと言わんばかりに、突然にそうした映画から目を背けるようになり、映画業界もスタントマンを必要としないコメディやラブコメ映画ばかり作るようになったのである。

……こうして、再び困窮したコンサンはサモやピョウに別れを告げて、12年ぶりの再会となる両親の待つオーストラリアへと渡り、左官見習いとして働いた。

……が、矢張り映画への思いは断ち切れず香港に舞い戻りサモを頼るも、サモも失業間近という有り様で、矢張りオーストラリアへと帰ることを決める。

しかし、そんなコンサンに大手のキャセイ・オーガニゼーションのウィリー・チェンなるプロデューサーが声をかけてくる。
スタントマン時代からコンサンを目に留めていたウィリーだったが、生憎と初顔合わせとなったこの時には、コンサンはオーストラリアの両親の許へと帰る直前であった。

オーストラリアへと戻ったコンサンは、本腰を入れて生活するべく学校で英語を学ぼうとするが上手くいかなかったという。

そして、父親からジャックという建設作業員を紹介されて働きに出たのだが、そこで何を思ったのかジャックはコンサンを「自分と同じジャックだ」と仲間に紹介すると、大柄なビッグ・ジャックに対して小柄なリトル・ジャック……そして、ジャッキーがコンサンの愛称となり、本人もその響きをいたく気に入り、以降はジャッキーを名乗るようになるのだった。

そして、運命はブルース・リーと同じく、英語圏にも通じる名前を得たコンサン=ジャッキーを放ってはおかなかった。

香港映画界の重鎮ながら傲慢さと悪辣さで知られ、リーとは喧嘩別れとなった大物監督のロー・ウェイが、再びマーシャルアーツ映画で一山当てたいと希望し、相談を持ちかけられた部下のウィリーが白羽の矢を立てたのがジャッキーであった。

スタントマンではなく、大作映画の主演という事で最初は渋っていたジャッキーも香港に戻った訳だが、そこでローに望まれたのは“ブルース・リーのコピー”になることだった。
立て続けに主演作が制作されるも何れもヒット作とはならず、精悍なリーに対して何処と無くユーモラスな風貌のジャッキーは鼻デカ野郎とローに疎まれ、厄介者扱いされた。

ジャッキー自身も所詮はリーの物真似では観客達には響かないと悟っていた訳だが、チャンスは意外な所からやってきた。
大手のキャセイに対して、新興で規模は小さいながら面白い映画を作ると評判だったシーゾナル・フィルムが、タレントとしてはロー・ウェイの個人事務所に所属していたジャッキーのレンタルを申し出て来たのだ。

興行収入を稼げないのならレンタル料だけでも取れ、とローは喜んで厄介者を送り出した訳だが、この決定がジャッキーの運命を大きく花開かせることになる。

シーゾナルには、ジャッキー達の大先輩である学院出身の“ユエン”一族が関わっており、彼等はジャッキーの将来性を認めた上で声をかけていた。
そして、実際の制作に於いてもジャッキーの全ての希望を聞き入れて好きにアイディアを盛り込ませ、全体となって方向性を定めて行ったのだ。

……こうして制作されたのが、初の出世作『スネーキーモンキー 蛇拳』(78年)であり、最初から無敵のヒーローであったブルース・リーに対して、最初は情けなかった主人公がコミカルな特訓により力を得る、喜劇的な要素も加えた、それまでの“お約束”であった仇討ち無縁ながらも王道的な成長物語に観客は熱狂し、おおよそ五年ぶりにカンフー映画のヒット作が誕生したのだった。

続けてジャッキーは『蛇拳』のコンセプトを、より強化した快作『ドランクモンキー 酔拳』(78年)を、ほぼ同一スタッフにより制作。

『酔拳』は『蛇拳』の三倍……ブルース・リーの『ドラゴンへの道』(72年)をも遥かに越える興行収入を挙げるヒット作となるも、同時期にジャッキーはローとの大きな確執を抱えることになる。

『蛇拳』のヒットを見たロー・ウェイはあっさりと掌を返すとジャッキーを強引に呼び戻して自分の映画に出演させた訳だが、この時の強引なやり口と過去に自分の持ち味を掴むべく若い世代と作ろうとしていた映画(『カンニング・モンキー 天中拳』(78年)*4 )を無理矢理に潰された経験から、ジャッキーはこの時に『酔拳』と平行して撮影に入らねばならなくなったロー・ウェイ監督の『拳精』(78年)について、世間的にはヒット作となり、ユン・ピョウ等も出演してくれている作品ながら「変な映画(意訳)」と後々まで酷評している。
そうした訳で、ジャッキー本人には不満が残る作品ながら、ロー・ウェイ監督時代のジャッキー映画としては最も人気が高く、ファンからも評価の高い快作である。(有名な五獣拳が登場するのが本作である。)


【日本での人気】

尚、日本でも香港より遅れて半年以上が過ぎてからだが邦訳版『酔拳』が公開されて大ヒットを飛ばし、続いて『蛇拳』が、続いて『笑拳』が……と、続いた後には、ジャッキー自身は恥としていたコケたロー・ウェイの許で制作された過去作までもが『◯拳』シリーズとして纏められて立て続けに公開されて、空前のジャッキー、延いてはカンフー映画ブームが起きることになる。(ブルース・リーの時はあくまでもリー人気)

ジャッキー本人は最初に日本に招かれた時には本当に自分なんかが日本でも人気があるのか半信半疑だったとのことだが、
いきなりの大きな歓迎とファンからのたくさんの贈り物も受けて感動し、それ以降は大スター中の大スターとなっても、折々に日本のTVにも快く出演してくれる等していた。

80年代~それ以降にも通じる、大人も子供も夢中になったヒーローの一人であり、ファンであることを公言する鳥山明の『ドラゴンボール』を初め、日本の少年漫画の王道として定着した、特訓で強くなる主人公といった要素の元ネタとなったのがジャッキー映画である。

また、この当時からあまりのハマり役ぶりから劇場公開でもTVでも“ジャッキーの吹き替えといえば石丸博也”となっており、石丸にとっても『マジンガーZ』の兜甲児以来の代表作となっている。

ジャッキーが日本でこれ程の人気者となれたのには石丸の声の助けもあったことは間違いなく、後に直に顔を合わせたジャッキーも石丸を日本での自分の声と認め、香港で石丸の演技を紹介するときは反対に自分が声を当てると答えている。

また、ジャッキーは日本に来る以前より、香港でも有名な当時のトップアイドルだった西城秀樹のファンであり、実際に顔を合わせてからは親友の間柄となり、共に歌ったり共演もしている。

90年代となると、容姿の似ているウッチャンナンチャンの内村光良との交流で知られている。
似ているだけではなく本人もジャッキーの大ファンにして、若い頃は高い身体能力を誇っていた内村は、企画内でガチでジャッキーのアクションの再現に挑み成功させ、ジャッキー本人からも称賛を受けた。

嘘か真か、一人二役で生き別れの双子を演じた『ツイン・ドラゴン』(92年)が制作された時には、日本の雑誌広告では片方の顔を内村に差し替えて、ジャッキーはウッチャンを見て映画を思いついたと宣伝された。
尚、ウンナンの古くからの友人である出川哲朗が、内村を未だにチェンと呼ぶのも、それが学生時代からの内村のジャッキーに似ていたことから付けられたあだ名だからである。

この他、00年代以降となると、サブカル系アイドルの中川翔子が大のジャッキー好きとして知られている。
また、TOKIOの『鉄腕!DASH』には息子や目をかけている若手俳優を引き連れては対戦企画に度々登場していた。


【ジャッキー・ジャック事件】

何れにせよ、完全に世間の評価を覆して新たなるスターとなったジャッキーには、流石のローも譲歩せざるを得なくなり、マネージャーとなったウィリーの後ろ楯もあり、二人で新事務所を設立すると、初監督作品『クレージーモンキー 笑拳』(79年)を制作、公開、本作も大ヒットとなった。

尚、本作はローの事務所で撮影中だった映画を途中で中止して、その映画に関わっていたスタッフと役者をそのまま利用して撮影したという経緯があり、ローの顔に泥を塗る行為であった。*5

本作によって更に評価を高めたジャッキーに対し、ブルース・リー作品の制作を手掛けていたゴールデン・ハーベスト(嘉禾電影有限公司)が獲得に動き、それまでは6千香港ドルのギャラに留まっていたジャッキーに、410万香港ドルの価値を付けた。

しかし、この動きに対してローは少し前にウィリーの首を盾にジャッキーにサインさせていた白紙の契約者の内容を二人との約束を反古にして好き勝手に書き、1,000万ドルという法外な違約金を盾に遺留を迫った。

ローの側近に話を通して改竄の証拠を握ったウィリーの努力もあり、二人は揃ってゴールデン・ハーベストに強行移籍すると、早速の新天地で監督・出演作『ヤングマスター 師弟出馬』(80年)の撮影に入る。

しかし、どうしてもジャッキーを手放したくないロー・ウェイはマフィア(芸能ヤクザ)を使い撮影終わりのジャッキーを拉致させると、強引に再契約を迫ったのだった。

この時もジャッキーを助けてくれたのは、今や一心同体となったマネージャーのウィリーだった。
ウィリーはゴールデン・ハーベストに働きかけてローとの手打ちを結んで貰い、マフィアについては元祖香港映画界のドン、ジミー・ウォンに味方についてもらって解決した。
この恩義から、ジャッキーはトップスターになってから後もジミー・ウォンの映画に準主役以下で出演したりしている。

こうして、懸念の無くなったジャッキーの『ヤング・マスター』は当然の様に大ヒット。

これを受けてゴールデン・ハーベストは、今度はジャッキーを擁して再びハリウッドに挑むことになる。


【香港映画三銃士】

かの『燃えよドラゴン』と同一スタッフを揃えて撮影開始された『バトルクリーク・ブロー』(80年)だったが、ハリウッド式でジャッキーのアイディアが上手く反映されない現場となってしまい、過去のそうした作品と同様に今回も不振に終わる。

続く『キャノンボール』(81年)は、日米ではウケたものの香港では不振に終わり、初のハリウッド進出は苦い経験となった。

……一方、映画は不振に終わったがロサンゼルスでジャッキーは大きな出会いを果たしていた。
それは、同じく米国進出にやって来ていた台湾出身のアジアの歌姫テレサ・テンで、若い二人は直ぐに意気投合して恋仲となった。

しかし、若きスター同士の恋を運命は応援してくれなかったのか、香港に戻ったジャッキーは再起をかけて新作『ドラゴンロード』(82年)の撮影に臨んでいたものの失意から私生活は荒み、柄の悪いスタントマン達を引き連れては街で悪さをする有り様で、忙しい合間に来てくれたテレサへの配慮も陸に出来ずに、二人の淡い恋は儚く終えた。

そんな中、荒んでいたジャッキーを救ったのは、過去に自分を救ってくれた“ビゲストブラザー”サモ・ハンであった。
ジャッキーの人気にあやかり、自身も役者、映画監督としての地位を着々と築いていたサモは、後輩ながら役者としては格上であったジャッキーを、自身の企画した『五福星』(83年)に出演させ、更に共通の弟分のユン・ピョウにも大きな役が与えられ、明るく楽しい映画は大ヒットを記録する。

この成功を受けて、様々な悩みを吹っ切ったジャッキーは、ブラザー達への恩返しも兼ねた“三人の主演作”として、ジャッキー映画の最高傑作とも呼ばれる『プロジェクトA』(83年)を企画。

この映画の中で、ジャッキーはハロルド・ロイドが『要心無用』(23年)で見せていた時計塔から落ちそうになるシーンに本当に挑み、たった二枚の屋根の幌以外にはクッションが無い状態で25メートルもの高さから落下するスタントを自ら行った。

ジャッキーをして覚悟に一週間を擁し、途中で心配したり呆れたサモに揶揄されたりといったこともあったものの、遂に覚悟を決めて落下したジャッキーは、一度成功させた後は“落ち方が気に入らない”として、三度もリテイクに挑んだ。

そして、ここから三十路を迎えたジャッキーによる、飽くなき挑戦の旅路が続くことになるのであった。

こうして、立て続けにヒット作を連発した学院出身の“ブラザー”達は、続けてローマを舞台に映画を撮影したブルース・リーにあやかり、スペインを舞台に『スパルタンX』(84年)を撮影。ミーサーワ ミーサーワ
同映画内にて、三人が名乗った“三銃士”(ビッグ3)が新たなる“ブラザー”達の呼び名となる。

今作での大きな見所となったのが、当時のWKA(世界キックボクシング連盟)ライトヘビー級チャンピオンとして君臨していたベニー・“ザ・ジェット”・ユキーデを招聘してのジャッキーのタイマンシーンで、迫力を出すために手加減は心がけつつも本当に当てる打撃を解禁した迫力のバトルに観客は熱狂し、やりきった当人達も映画の1シーンでありながら再戦を誓い合う程だった。
この戦いは、長年のキャリアの中でもジャッキー自身がベストバウトとして挙げる程の一戦であり、後の格闘漫画、ゲームブームにも大きな影響を与えた。

こうして、ゴールデン・ハーベストの抱えるトップスターとなった三銃士は共演作も個人作も大人気となり、同時に複数の映画の撮影に入ることもある等、現場スタッフも何の映画を撮っているかが解らずに混乱する程だったという。

サモ・ハンによる『五福星』シリーズの続編『香港発活劇エクスプレス/大福星』(85年)では日本ロケを敢行。
第三弾の『七福星』(85年)は当時の大人気刑事ドラマ『あぶない刑事』と供映され、ジャッキー達が如何に当時の日本でも受け入れられていたかが解る。

続いてジャッキーは再び米国進出に挑みワーナーブラザーズも協力して『プロテクター』(85年)の撮影に入るものの、ハリウッド式の銃撃をメインとした映画に難色を示し監督と反目。
ジャッキーは自分で金を出してまでアクションシーンを追加し、結果的に2バージョンのちぐはぐな映画が出来上がることになってしまった。

再びの失敗の鬱憤を晴らすべく、香港に帰って来たジャッキーが制作したのが『ポリス・ストーリー 香港国際警察』(85年)で、同作に於いてジャッキーは傘で二階建てバスにぶら下がり、クライマックスのショッピングモールのシーンでは、電飾が付いたままのポールに飛び写り回転しながら三階から落下してガラスの屋根に突っ込むスタントに挑んだ結果、感電して死にかけた上に脛椎を損傷して骨盤を脱臼。おまけに両掌に大火傷を負う重傷と引き換えにシーンを成功させた。

復帰したジャッキーは、大好きなインディ・ジョーンズのオマージュとなる冒険活劇『サンダーアーム/龍虎兄弟』(86年)の撮影に入るのだが、大木に飛び移るという何でもないスタントだったのに、枝が折れて頭から落下したジャッキーは頭蓋骨が割れてしまい、骨の一部が脳に食い込む重傷を負ってしまう。

死亡説が流れる程の大事故だったものの、動けるようになると直ぐに復帰したジャッキーは撮影を再開。
更に、新作『プロジェクトA2/史上最大の標的』(87年)を制作して不死鳥ぶりを見せつけた。

さして、サモ・ハンにより久しぶりに三銃士が揃っての新作『サイクロンZ』(88年)が撮影され、かつての約束通りにベニー・ユキーデも再登場する等、ファンを喜ばせたものの……この頃になると各々が大スターとなっていたサモとユン・ピョウにとっても役者としては常に先を行くジャッキーと共演すると格下扱いされることに我慢ができなくなっているのが誰の目からも明かで、映画を通してもギクシャクが伝わってくるような有り様であった。

結局、約五年で三銃士の黄金時代は幕を閉じ、本作を最後に三人が揃った共演作は作られていない。
不仲も報じられた三人だったが、自伝によればプライベートでは既に和解しているという。


【ハリウッド進出】

90年代に入ると、香港映画もそれまでのド派手なアクション偏重の時代からストーリーも重視したバランスのいい作品が好まれるようになり、ジャッキーの出演作品にも変化が見られるようになる。

ジャッキーも流行に先駆けて自身が最も気に入っている映画と評する『奇蹟 ミラクル』(89年)を公開しており、
その後は仕事の幅を広げつつ安定した活動を続けていたが(ある意味で有名な北条司原作の『シティーハンター』(93年)の実写化もこの頃。)、その中で自身の出世作の名を冠し、内容的にはストーリーが練られていて重厚、アクションも単に危険なだけのスタントではなく、人間の限界に挑むような格闘バトルに終始するという傑作『酔拳2』(94年)を公開して大きな話題を集める。

こうして、図らずも自身の映画人生に一区切りを付けたような形となったジャッキーは、長年の相棒ウィリーの薦めもあり、同年に三度目となるハリウッド進出作『レッド・ブロンクス』(95年)*6に挑むことになる。

ニューヨークが舞台と言いつつもカナダで撮影された本作だったが、観客がそんなことに気づくようでは自分のアクションが失敗している証拠とまで語り、気合いの入ったアクションを見せつけたジャッキーは、隣のビルに命綱無しで飛び移る。路地裏で本物のビンを投げつけさせる。撮影中に踵を骨折する重傷を負いながら、ギプスを黒く塗って撮影を続行する等、向こうの撮影スタッフを幾度も驚かせつつ映画を完成させ、シンプルながら驚異的なアクションは、ジャッキーが40代に入っていたという事実も合わせて米国の観客を驚かせ、配給収入一位を獲得させると共に、遂にジャッキー・チェンの名をハリウッドに認めさせてTIME誌の表紙を飾るまでとなった。

ハリウッドでも精力的に映画を撮り続けたジャッキーはスマッシュヒットを連発していたが、当時の売れっ子クリス・タッカーとの共演では、後に最大のヒットシリーズとなる『ラッシュアワー』(98年)を物にする。
相変わらず、アクションは物足りないとしつつも、本格的にハリウッドの空気を纏った本作品の中で堂々の主役を張ったのだった。


2010年には『ベストキッド』(10年)のリメイク作にて師匠役を務めている。
原作が空手なのにカンフーに変わってしまっていることにはツッコミもされたが、作品内容は評価が高い。

また、人気作となった『カンフーパンダ』(08)シリーズでも声優として出演している。


【独創的なアクションとスタント】

ジャッキー映画の大きな魅力の一つが舞台となるシチュエーションや環境を活かした効果的な場面を常に模索していることがある。
スノーボードで崖から飛び出してヘリに捕まったり、スカイダイビングから気球に着地したり、ヘリの梯子に掴まった状態で町中を飛んだりと文字通り“漫画的”な馬鹿らしいとすら言えるシチュエーションに挑戦して、しかも成功させてきたのがジャッキーという男なのである。
屋内のシーンでは椅子や脚立を利用したアクションでも知られるが、それ等も効果的に見える使い方が出来るまで手を何度も潰しながら成功させたシーンである。
尚、本人のポリシーとして“過去に自分がやって出来たことだけ他のスタントマンにやらせる”とのことだが、大体はジャッキーが先駆者にして唯一の成功者なので配慮出来ているのか解らない発言である。


【主な負傷箇所】


  • 頭(『サンダーアーム』頭蓋骨骨折)

  • 耳(『サンダーアーム』頭蓋骨骨折の影響で片耳が聞こえ難くなる障害が残る)

  • 目(『酔拳』眉骨の骨折により失明しかける)

  • 鼻(スタントマン時代に傘の先が突き抜ける)

  • 歯(『蛇拳』ラスボス役の蹴りが当たってしまい前歯が吹っ飛ぶ)

  • 首(『プロジェクトA』例の落下に於いて頸椎に重機)

  • 肩(『シティーハンター』右肩を脱臼、靭帯損傷)

  • 胸(『プロジェクト・イーグル』ぶら下がっていた鎖から落ちて脱臼。*7当人もどうして負傷したか解らなかったという)

  • 背中(『ポリス・ストーリー』電飾ポール落下により脊椎の第6~8節を負傷。危うく半身不随に)

  • 腰(『ポリス・ストーリー』では骨盤脱臼。『アクシデンタル・スパイ』では尾てい骨骨折で一時的に下半身不随に)

  • 太腿(『新ポリス・ストーリー』にて二台の車に挟まれて損傷)

  • 膝(『シティーハンター』でスケートボードを追跡中に。数えきれない膝の怪我を負ってきたが特に痛かったとのこと)

  • 踵(『レッドブロンクス』にて高所からの着地で骨折)


※代表的な物であって、同じ箇所でも軽い怪我や不明な物は除く。

※指の骨折や『蛇拳』にて本物の剣で切られたことはあるものの、意外にも腕の骨折はしていない。

尚、以前に囁かれていた整形疑惑については後に本人も認めている所である。
ただし、美容整形と呼べるのは一重を二重にした位で、後は上記の撮影中の怪我の治療により顔が変わってしまった場合が殆どとのこと(顎や頬骨もやっている)。


【政治的発言と批判】

以上のように、長い活動の中で広い世代や多くの国の人々に愛されているジャッキーだが、近年では中国共産党のプロパガンダに加担しているとして批判されることも多くなっており、実際に政治委員にも選出されている。

特に、共産党政権への反発と対立の強まる地元である香港や台湾、中国国内に於いても、近年のジャッキーの発言や態度について失望したとの声も少なくない。

一方、前述のようにジャッキーの後になって明かされた出自的にも、共産党への忠誠を示すことは必要なことだったとする、後ろ向きな擁護の声もある。*8

…もっとも私生活には不倫や隠し子絡みなどの問題行動は大陸含めの中国語圏に周知されており、政治抜きでも酷評されたことが多く、あちらには「英雄を演じるクズ」俳優の一人とも呼ばれている(逆に「クズを演じる英雄」と呼ばれた俳優はアンソニー・ウォン、サイコキラーと悪役として有名な人物)。

【余談】


  • 映画の世界ではアジアで並ぶ物の居ない程の大物だが、CMキャラクターとしては何故か起用された企業が後に倒産してしまうジンクスがある。


  • 88年に兄貴分のサモ・ハンが中国戯劇学院をテーマにした『七小福』を撮影して高い評価を受けた際に、“あんな甘い世界ではなかった”と正直な感想を漏らしている。


  • 非常に車好きであり、最盛期には名だたる高級車や日本車等、52台を保有していた。


  • 主演映画の主題歌を始め歌手としても活動しているジャッキーだが、実は『ミュージックステーション』の記念すべき初回放送のゲストとしても知られている。香港からの中継という形で出演し、歌い終わった直後に宙返りをしながらプールへ飛び込むというアクションを披露してみせた。
    なお、この時に歌われた『THE BOY'S LIFE』は、2007年になって某動画サイトでとんでもない空耳が聞こえるとして一時期流行していた。


  • 2005年にゲームイベントのゲストとして来日したジャッキーは、そこで初めて『スパルタンX』がゲーム化されている事実を知り、関係者に向かって無言で使用料を払えというジェスチャーを行うという笑えないジョークを飛ばして会場をドン引きさせている。


  • 2008年に開催された北京オリンピックでは、聖火ランナーとして参加している。
    この時期、中国はチベット独立問題で揉めており、それに対する抗議として欧州や北米での聖火リレーでは実際に走者妨害が行われるという一幕があった。ジャッキーはメディアの取材に対し「私から聖火を奪おうとする者は、カンフーの神髄を味わう事になる」と発言、案の定各国のジャッキーファンは大いに盛り上がり、当時のネット上では
    「ジャッキーがピンチになったとき酒を投げ渡す役やりたい」
    「じゃあオレはジャッキーの通り道でバケツに釣り糸垂らしてるわ」
    「雑魚を蹴散らし、最後に間違って聖火を蹴ってしまいアチャーって言うジャッキーが見たい」
    などなど、ちょっとした大喜利が始まっていた。




追記修正は通勤、通学で走る車に飛び乗ってからお願いします。

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最終更新:2024年03月20日 22:11

*1 自伝でジャッキーはユエン・ロン=サモ・ハンの主張が正しかったと述懐している。

*2 ある時あまりの厳しさに脱走し近所のビルに隠れている間、ユン・ワーが食事を作って運んでいたがバレた。しかし、それによって罰の鞭打ちを受けたのはユン・ワーでユン・ロン=サモ・ハンはお咎め無しであったという。

*3 『サイクロンZ』(88年)のボスや『霊幻道士』(85年)の先代キョンシー、『カンフーハッスル』(04年)の大家の旦那役で日本でも知られる。サモやジャッキーを差し置いて、純粋な身体能力では“七小福”でもNo.1だと讃えられている、顔はコミカルだが凄い人。因みに、サモ・ハンが不足分を監督した『死亡遊戯』のリーの代役はユン・ピョウと言われており、実際にピョウが演じている箇所もあるのだが、以前と同じく、殆どは同じくユン・ワーが務めているとのこと。

*4 公開は80年。

*5 後の83年にロー・ウェイはこの映画と、以前の自分のプロダクション時代の映像を切り貼りし、そっくりさんまで用意して一つの映画とした『ジャッキー・チェンの醒拳』を公開してジャッキーを激怒させているが、そんな作品でもそこそこのヒットになっているあたり、如何に当時のジャッキー人気が高かったのかが解る。尚、ジャッキーを失ったロー・ウェイは身から出た錆とはいえ、以降はヒット作に恵まれていない。

*6 制作は94年。

*7 敵役の打撃を受けたとされる記事も。

*8 実際、当人は香港返還以前の天安門事件の際には元恋人のテレサ・テン等と共に抗議の声を挙げている過去がある。