アンドレ・ザ・ジャイアント

登録日:2020/05/12 Tue 02:04:33
更新日:2023/07/11 Tue 12:46:03
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アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)1946年5月19日 - 1993年1月27日は、フランス・グルノーブル出身のプロレスラー。

本名:アンドレ・レネ・ロシモフ

公称身長2m23cm、体重236kgという驚異的なサイズを武器に、文字通り世界を股に架けて活動していた。

主なキャッチフレーズは、映画『キングコング』から引用された“The 8th Wonder of the World(世界8番目の不思議)”
“Giant(大巨人)”等。
新日本プロレス来日時には古舘伊知郎による名キャッチフレーズとなった“人間山脈”“一人民族大移動”が生み出された。

巨人レスラーの究極型とも呼ぶべき存在であり、これまでに登場した巨人系レスラーをも越える圧倒的な巨体を持ちながら、そこからは想像も出来ない優れた身体能力を活かしたスピードを誇り、更には、レスリング等の経験の賜物か、器用にアームロックやスープレックスもこなせるテクニックまでも兼ね備えていた。
このように巨体でありながら、ちゃんと技と呼べるものを使いこなせる技量があったが、アンドレの体格で行うには破壊力がありすぎて本当に相手を壊してしまい、封印された技もある。
尚、80年代以降は体重が増えすぎた結果、私生活に影響を及ぼす等、急速に身体能力が衰えていったが、東洋の巨人ジャイアント馬場との最晩年の出会いと友情は日本のプロレスファンには忘れられない姿である。


【来歴】

フランスのグルノーブルでブルガリア=ポーランド系の家系に生まれる。
少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングと様々なスポーツに打ち込んでいたが、人並み外れた巨体となり、18歳の時にスカウトされてパリでプロレスラーとなったとされる。

尚、嘗ての日本では劇画『プロレススーパースター列伝』でもネタにされているように、樵をしていた所をエドワード・カーベンティアに“発見”されたとする浮世離れした伝説が流布していたが、当然の様に事実ではなく、アンドレはちゃんと教養のある文明世界の人間である。*1

実際には、パリで家具運送会社に勤務していた所をカーベンティアに見出だされたというのが真相らしいのだが、現代に比べると情報が曖昧な時代ということもあってか、デビューからのフランス時代の経歴は正確には伝わっていない。

当時はジェアン(ジャイアント)・フェレ、モンスター・エッフエルタワーといったリングネームを名乗っていたとされる。

1970年2月に吉原功に見出だされ“モンスター・ロシモフ”の名前で国際プロレスに初来日した際に、同じく来日していた米国の大物プロレスラー、プロモーターであるAWAのバーン・ガニアに目を付けられて北米進出を果たす。

先ずは、フランス語の通じるカナダ・モントリオールを拠点として、ジーン・フェレ(ジャン・フェレ)名義で活動を開始した。

73年にニューヨークのWWWF(現在のWWE)に初参戦し、ボスでプロモーターのビンス・マクマホン・シニアにより“アンドレ・ザ・ジャイアント”のリングネームが与えられ、以降はこの名前が定着する。

メインのブッキング権はビンスSr.が握ったものの、居るだけで金になるアンドレは各地のプロモーターが喉から手が出る程に欲しがる人気商品であり、古巣のAWAは勿論、NWAにも登場。
更には、ビンスSr.の戦術的判断により、日本を含む他地域のテリトリーにも短期参戦を繰り返す売り出し方をされた。
これについては、過去の巨人系レスラーが見た目だけでプロレスの実力が伴わなず、直ぐに飽きられていたことから、短期参戦のみとして希少価値を高めるという目的があったようである。
実際、バトルロイヤルやハンディキャップマッチでの巨体を利した圧倒的な強さも売りであった。
しかし、前述の様にアンドレは過去の巨人系レスラーの常識の範疇には収まらない才能の持ち主であり、通常の形式の試合でも名場面を生み出している。
74年には年俸世界一のプロレスラーとしてアンドレの名がギネスに載っている。(当時の為替ルートで1億2000万円程)


【新日本プロレス時代】

尚、WWWFがメインの雇い主となったことから、74年からは来日先が国際プロレスからWWWFと提携を結んでいる新日本プロレスに変わり、一度の来日期間その物は短かったものの、上記の世界サーキットの期間中の折々に来日しては、数多くの名場面を作り上げた。

猪木との抗争では、キーロックを仕掛けられて持ち上げる、反対にカナディアン・バックブリーカーを仕掛けてトップロープを蹴って反転した猪木に抜けられる、といった攻防が売りとなっていった。

アンドレと言えば、この当時には雑誌の取材にも応じず、古舘伊知郎の実況もあってか非常に強面で気難しいというイメージが定説となっていたが、外国人レスラーのケアも担当しており、友人と呼べる仲だったレフェリーのミスター高橋の回顧録によれば、本来は人懐こい一面やユーモラスな一面もあったことが窺える。
実際、新日本参戦時にファンサービスを行わなかったのは、立場上のヒール(悪漢)としての役割を貫いていた為とも言われている。

年齢を重ねて酒量が増えていく程に気難しくなっていったとも言われていたが、85年には、前年より新日本プロレスに登場して、メンバーの突然の増殖をネタにしていたマシン軍団バレバレな新メンバー“ジャイアント・マシン”に扮したこともある。
しかも、怒られるかなと思いつつミスター高橋がホテルの部屋にマスクを持っていったら、マスクを見るなりやって欲しいことを了解すると、その場でノリノリでマスクを被って見せた程であったという。

また、74年から新日本プロレスに参戦するようになっても、74年と79年に仲のいいマイティ井上に対して「ギャラは幾らでもいい」とまで言って、古巣の国際プロレスに参戦している他、85年に所属していたWWFが新日本プロレスとの提携を切った後も86年までは個人の参戦を継続しており、出世のきっかけとなり、長年に渡り自分を受け入れてくれた日本のマット界への思い入れや本人の義理堅い性格が窺えるエピソードもある。
後述の様に、最晩年に参戦した全日本プロレスでは一転してベビーフェイスの立場であったためか、相当に健康状態が悪化していたにも関わらず、笑顔でファンの声援に答える等、出来得る限りのファンサービスを怠らなかった。

アンドレと言えば、81年9月にはトップ外国人として急伸していたスタン・ハンセンとの伝説の田園コロシアムでの激突を実現させており、10分に満たない時間ながらも、互いに信頼のある“怪物”同士のド迫力のぶつかり合いは、日本マット史上に於ける、ガイジン対決の最高峰とも評されている。*2

一方、新日本プロレスでのアンドレのハンセン戦と並ぶ程の伝説の試合といえば、86年4月の津市体育館に於ける、此方も急伸していた前田日明との一戦である。
現在でも真相について不明瞭だが、一説によれば格闘技色の強い戦いを打ち出し、コントロールし難い存在となっていながら、ファンからの支持が高い前田を“潰す”為に、新日本上層部がアンドレにセメント(ガチ)を仕掛けさせたとも言われている。
アンドレの異様な雰囲気を察したのか、前田は本気の蹴りで対抗。
それを受けて、アンドレはまだ余力がありながらも自らリング上に倒れて起き上がろうとせず、そのままノーコンテスト(無効)試合とした。
この試合は、中継を収録までされていたのに『ワールドプロレスリング』での放送が見送られたこともあり、長らくプロレスファンの間で議論を呼ぶことになり、映像がマニア間で取り引きされてきた。
上記の経緯も、最も可能性のありそうな話というものであり、繰り返すが実際の経緯は不明。
アンドレが倒れ込んだのも、試合を無効にすることで前田に大怪我をさせることを拒否したとも言われる。
前田のスタイルについては、ディック・マードックも本人を捕まえて苦言を呈したこともあるとも言われているので、外国人レスラーの間で不満が溜まっていたのかもしれない。

何れにせよ、奇しくもこの試合を最後とするように、暫く日本マット界から離れることになるのであった。


【WWF時代】

84年より、WWF(ビンス・マクマホン)によるTV中継を軸とした、従来のテリトリーを越えた全米進出計画が開始されると、アンドレは絶対的主役であるハルク・ホーガンと共に、ベビーフェイス側の主役の一人として陣営に迎え入れられることになる。

ビンスは、85年に全米進出計画を実行に移すためか新日本プロレスとの提携をほぼ一方的に打ち切っていたのだが、アンドレ自身は上記の様にWWFに所属しながらも86年までは新日本プロレスに参戦しており、アンドレの義理堅い性格が窺える。

WWFでは、以前よりのドル箱カードであったビッグ・ジョン・スタッドとの“巨漢対決”が最初の軸となり、85年の3月の第1回レッスルマニアでも、スタッドとのボディスラムマッチが組まれて注目を浴びた。
因みに、米国でもビンスがしれっとアイディアを持ち帰ったWWF版マシン軍団の一員としてジャイアント・マシンに変身している。
マスクド・スーパースター(ビル・イーディ)が変身したスーパー・マシンとタッグを組んでいたが、一応のアイディア元へのリスペクトからかスーパー・マシンが北海道生まれの日本人(WWF公式)とされていたためか、ジャイアント・マシン時のアンドレも設定に付き合って、変な日本語を発していた。
ほぼ一方的に新日本との提携を打ち切ることになるビンスだったが、マシン軍団のアイディアはお気に入りだったのか、同時期にホーガンもマシンに変身している。この為、00年代にWWEに復帰したホーガンが“ミスター・アメリカ”に変身してビンスと茶番を繰り広げた時はオールドファンは懐かしがったという。

北米では一貫してベビーの立場だったアンドレだが、87年に入ると、ストーリー上の“盟友”であったホーガンを裏切り、ボビー・ヒーナンをマネージャーにヒールに転向した。
ホーガンとの抗争は3月のレッスルマニアⅢで付けられ、アンドレの巨体をホーガンが完璧なボディスラムで投げきった場面が最大のハイライトとなった。
翌年2月のホーガンとの戦いで、疑惑の判定ながら勝利してWWF世界ヘビー級王座を獲得するが、億万長者ギミックのヒールを演じていた“ミリオンダラーマン”テッド・デビアスに売却したという設定で1日も待たずに手放している。
結局、デビアスも正式な王者として認められずに王座を剥奪されることになるが、以降はデビアスをパートナーとして“メガ・バックス”を名乗り、WWF王者となったランディ・サベージとホーガンの“メガ・パワーズ”と抗争を繰り広げる。

一方、この頃には体重の増加と、それに伴う膝の悪化により全盛期の動きは出来なくなってきており、アンドレのポジションもメインイベンターから後退していく。
そして、アルティメット・ウォリアーの売り出しの踏み台にされたり、突如として“蛇嫌い”のギミックが付けられてジェイク・“ザ・スネーク”・ロバーツとの抗争を経て、体調不良を理由に90年にWWFよりの退団を申し出るのだった。


【全日本プロレス時代】

90年4月に、ビンスがWWFの日本進出を狙ったのを断られたことをきっかけとして東京ドームで新日本・全日本・WWFによる日米レスリングサミットが開催中されて久しぶりに来日。

ここで、初めて“東洋の巨人”と呼ばれ、新日本参戦時には比較されることもあった、全日本プロレスのボスのジャイアント馬場とのタッグが組まれた。
互いに性格的に気難しい所があると評されていた二人であったが、巨人アスリート同士で通じ合うものがあったようで、初のタッグ結成ながら十六文キックからのエルボードロップで快勝を飾ると、同年9月30日の馬場のデビュー30周年記念試合に全日本プロレスに来日してタッグながら、大巨人同士の初激突も実現させた。
こうして、WWFを離脱していたアンドレは、自身の最後の戦場として馬場の居る全日本プロレスを選択する。

当時の全日本プロレスでは、既に馬場も一線を退いていた身だったが、アンドレという無二のパートナーを得て奮起。
90年、91年の全日本プロレス恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦に大巨人コンビ(摩天楼コンビ)で参戦しており、90年はザ・ファンクス戦で馬場が左大腿骨骨折の重症を負ったことで無念の途中離脱となったものの、91年には準優勝を飾っている。

92年からは、いよいよアンドレの体調が悪化していたこともあり、アンドレは馬場vsラッシャー木村のファミリー軍団の試合に加わり、体の負担の少ない試合をこなした。
この92年にも、年末には大巨人コンビでタッグリーグに出場して、今度こそ優勝することをファンにも期待されていたのだが、10月の創立20周年記念試合で久々に対戦した際に、馬場がアンドレの限界を悟ったことから三度目の出陣を断念したことを後に振り返っている。(※この年の馬場は小橋と組んで出場。)

しかし、この記念試合にて久々にハンセンのウェスタン・ラリアットを受けながらもロープにもたれて踏みとどまる等、最後まで大巨人の意地を見せつけてもおり、最晩年のアンドレの印象を、鶴田も病に倒れたこの年から、エースとして全日本プロレスを背負うことになった三沢光晴も「思った以上に強かった」と評している。

この全日本プロレス参戦時には、全日本所属となっていた旧友マイティ井上と再会出来たこと等もあり、アンドレにとっては楽しい日々だったらしく、馬場と移動バスの後ろに陣取ってワインを酌み交わしたりしていたという。



……そして、年が明けた93年1月27日。
父親の葬儀に出席するために帰国していたパリ市内のホテルで急性心不全により逝去。
享年46歳であった。
早すぎる死については、長年に渡る過度な飲酒が寿命を縮めたとも言われている。

死後、家族よりアンドレ愛用の椅子が遠くフランスから馬場に贈られており、世界を股に架けて活躍した東西の巨人の友情エピソードとして語り継がれている。


【体格について】

公称身長と体重は、前述の様に2m23cm、体重236kgとされているが、実際の所アンドレの体は晩年まで成長を続けていたとする説まである。

アンドレの強烈な威圧感による目算も含むとはいえ、最晩年の身長は公称より大きかったとする説もある一方で、身長が伸び続けていたのは事実だが、公称身長がそもそも盛っていた数値だったので、実際には2m20cm台には達していなかったとする意見もある。(モンスター・ロシモフ時代の公称サイズは身長2m18cm、体重170kg)。なお、一部関係者によると晩年は背がかなり縮んでいて、久々に会って驚いた…とも言われている。

体重については、実際に増加の一途を辿っていた為に、新日本時代の末期には最盛期とされる236kgすら越えていたのではないか?とする意見もある。

その規格外のサイズ故に、アンドレを“投げられる”ことは通常なら有り得ない(信じられない)話なのであるが、公式で数えられる程度だがアンドレを“投げた”選手も居る。

公式記録として残っているのは、前述のハルク・ホーガン他、スタン・ハンセンハーリー・レイス、ローラン・ボック、カネック、ブラックジャック・マリガン、ブッチャー・バション、カマラ、アルティメット・ウォリアーに、日本人ではアントニオ猪木長州力、ストロング小林である。
ビッグ・ジョン・スタッドとケン・パテラは二人がかりで投げている。
ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたばかりか、アンドレをKOしたとの逸話が語られていたが、公式記録には残っていない。
因みに、投げた回数が最も多いのはホーガンで体重が重くなってからも完璧なボディスラムを見せている。

また、上記の面々はアンドレをボディスラムで投げているがカール・ゴッチは、国際プロレスにてモンスター・ロシモフ時代のアンドレを完璧にジャーマン・スープレックスで投げきっている。

尚、アンドレが自分を投げさせたのは信頼の証であったとの話もあり、特にホーガンやハンセン、レイスについては信頼をした上で敢えて投げさせた、ととれる証言が投げた当人達から出ており、ホーガンやハンセンはアンドレのプロとしての意識と技量の高さを称賛していたと話を聞き出したキラー・カーン(小澤正志)が証言している。*3

その体格故に、ホテル等では設備がまともに使えず苦労することも多かったようで、あるホテルではトイレに座れないのでバスタブの中で大をしようとしてスッポリとハマってしまい、動けずに絶叫していた所を数人がかりで救出したとタイガー服部が証言している。
アンドレが重いわ、普通の人間の数人分はありそうな量の◯ンコの臭いが大変だったと苦笑混じりに回顧している。


【酒量について】

体格と共にアンドレの“伝説”と化しているのが酒に纏わる話で、鯨飲で移動のバスの中で延々と酒を飲み続けたというのは確実だが、とにかく飲む量が凄まじく、缶ビールを数百本単位で飲み干したとする逸話が複数の人間から語られている。
量やシチュエーションはそれぞれの語り手によって違うことや、如何にアンドレの巨体でも人類の常識を越えたアルコールを飲み干したのは本当かと疑いたくなるが、証言しているのが関係者ばかりで又聞きでは無いところが恐ろしい話である。

ラッシャー木村の息子の木村宏によれば、ラッシャーとアンドレでビール50ケース(大瓶、中瓶換算で1000本にもなる)を空けたという。

ミスター・ヒト(安達勝治)によれば、800kmの移動中に缶ビール118本を空け、到着後にワイン5ガロン(約19リットル)を飲んだ。

マイティ井上によれば、二人で一度に136本の缶ビールを空けてしまったことがある。

キラー・カーンと坂口征二によれば、ロサンゼルス経由サンパウロ行きの機内に用意されていたビールの殆どをアンドレが飲み干してクレームが付けられたといい、新間寿によれば機内には200~300本のビールが用意されていた筈だという。

ホーガンによれば、札幌巡業の際にサッポロビール園で大ジョッキ89杯を飲み干し、タンパ空港では50分程で缶ビール108本を空けたと語っている。

ファビュラス・ムーラによればペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空けた時には流石のアンドレも気絶したとのこと。

アニマル浜口によれば、まるでリポビタンDを飲むようにビールを飲んでいたという。


……尚、このように昔はビールを好んでいたが、ある時期からは太りすぎを気にしてワインを用意するようになったとミスター高橋が証言している。
とはいえ、結局は水のように飲み干してしまうので味には拘りがなかったようで、白ワインや熟成していないワインを好んでいたという証言も、単に飲みやすかったというだけかもしれない。
ホーガンによれば、誕生日に1ダースのワインを贈ったら2時間半で空にしてしまったという。
そんな調子なので、新日本でも全日本でもアンドレの乗るバスには専用の冷蔵庫が備え付けられていたという。
一時期は米国内でレストラン経営もしていたのだが、その目的は酒類の購入が安くなる(つまりは自分用)からだとまで言われている。

このように、若い頃に限った話だけでも凄まじい逸話を残すが、晩年にかけて酒量は更に増え、ワインを片時も手放せなくなっていったとも言われる。*4


【主な得意技】


  • ジャイアント・プレス
何の変哲もないボディプレスで、普通は大柄な選手でも頑張っても痛め技なのだが、アンドレの巨体でやることで圧死の可能性すら出る殺人技と化す。
相手に走り込み、更にジャンプして決めていた時期もあったが、後には傍らから両膝を着きつつ決めることが多くなっていった。
それでもアンドレ程の体重で、この一連の動作を行うのは負担が大きく、82年頃にからは殆ど使用されなくなった。
新日本プロレス時代に作られた、この技名を冠したテーマ曲『ジャイアント・プレス』はプロレス史上に残る名曲の一つ。
アンドレ以降も、巨人型レスラーのテーマ曲として使用された他、WWFでもジャイアント・マシンのテーマ曲として逆輸入されている。


  • ヒップドロップ
仰向けに倒れた相手の胸元に股がり、臀部を落としていく技で、ジャイアント・プレスよりは負担が小さくて済むためか、後には此方をフィニッシュとするようになった。
普通の選手では痛め技程度だろうが、アンドレの体重では胸骨をへし折られかねない必殺技である。
タフと認めた相手には、大きくジャンプしながら繰り出したと本人が証言している。


  • エルボードロップ
仰向けに倒れた相手の胸元に、体重を乗せた肘を落とし、そのまま押さえ込んでいく。
これも、普通の選手(結構な巨漢であっても)が使えば単なる痛め技に終わるのだが、アンドレの体格では必殺技となる。
体の側面で受け身が取れるのでジャイアント・プレスに比べれば負担は少ないが、それでも晩年には使用頻度が減っていたのだが、全日本プロレス参戦時には馬場の十六文からのアンドレのエルボードロップは、黄金パターンとして定着していた。


  • ヒッププッシュ
コーナーに追い詰めた相手を自身の臀部(背面)で押し潰していく。
数人を纏めて圧殺していくこともあった。


  • 放屁
タイガー服部によれば、アンドレの屁は日頃の飲酒や大食もあってか非常に悪臭で、それを利用して上記のヒッププッシュの際に悪戯心からか、盛大にかます時があったという。
その臭いは、相手レスラーどころか、レフェリー、味方レスラー、実況・関係者席はおろか、前列10席位までは観客席にも届いたという。
流石に盛ってる気もするエピソードだが、そう形容したくなる程に凄まじい悪臭であったことが窺える。


  • ビッグブーツ/十八文キック
巨人レスラー御用達のプロレス式のハイキックで、アンドレは主にカウンターとして使用。
馬場の十六文よりデカいということから、十八文キックとも称され、古舘伊知郎は「人間エグゾセミサイル(フランス製対艦ミサイル)」と呼んだ。
尚、実際には馬場の足のサイズ(34cm)が十六文(38.4cm)無いということはトリビアとして知られているが、アンドレの足(約38cm)が実際に十六文位の大きさである。


  • ヘッドバット
長身を活かした一撃は「二階からのヘッドバット」と称されていた。


  • ジャイアント・ボンバー
前述の“ジャイアント・マシン”変身時の必殺技。
ジャイアントなラリアット。
素顔でもハンセンとの田園コロシアムでの決着で放っているが、食らわせた相手はレフェリーのミスター高橋である。*5


  • ツームストーン・パイルドライバー
意外に思われるかも知れないが、初期の必殺技。
しかし、この技で72年に“密林王”ターザン・タイラーの頚椎に危うく再起不能となる重傷を負わせてしまった経験から自ら封印したようである。
巨人型レスラーが使った場合の垂直落下技の恐ろしさがよく伝わるエピソードだが、猪木とキラー・カーン戦にてエキサイトの余りに普通のパイルドライバー(ドリルアホール・パイルドライバー)を見舞ってしまったことはある。
また、パイルドライバーと表現されていたが、猪木戦でトリプルHのペディグリーの様にリバース・フルネルソンの体勢から両膝を着きながらうつ伏せに落とす技を見せたこともある。


  • フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ
実況ではブレーン・バスター(バーティカル・スープレックス)と叫ばれていたが、正確には(相手の脇の下に頭を差し入れていない)のでフロント・ネック・チャンスリー・ドロップである。


  • ロープもたれ
アンドレならではの“技”で、トップロープとセカンドロープの間にもたれ掛かる様な体勢から腕を挟み、更にロープを腕に絡める。
明らかに故意にやっているのだが、チャンスと思った対戦相手が攻撃しようとしてキックで迎撃するまでが一連の流れ。
一方、タッグではアンドレが動きが封じられている間にパートナー(アンドレに比して、あからさまに弱い選手が多かった)がやられる合図として、これもお約束の動きになっていた。
リングに張られたロープはワイヤーなので、簡単に腕に絡められるようなものではなく、アンドレの巨体と体重があってこその動きである。
実際、現在ではビッグ・ショーやグレート・カリでも無ければ同様の動きは見せられない。


この他、ベアハッグやネック・ハンギング・ツリー等を得意としていた。
全盛期には巨体ながらテキパキとした動きが可能であった。


【その他】

  • アンドレと言えば、その特徴的な見た目と巨体から創作世界でも数多くモデルに使われ、体格と共にインパクトのある髪型(カーリーヘアー)も踏襲されたりしているのだが、実はアンドレ当人の髪型はキャラクターの為のカツラであったという。
    本人も天然パーマであったが実際には短く刈り込んでおり、WWF時代以降はカツラを外した地毛で短髪にしていた。


  • 人種差別的発言により、バッドニュース・アレン(アレン・コージ)にホテルの屋上に呼び出され、謝罪しなければ突き落として殺すと脅されたと言われている。
    一方、アーニー・ラッドとは親友同士、カマラ(ジェームズ・ハリス=オリジナルの方)もアンドレの人柄を讃え、他にも黒人レスラーをパートナーとしたことは少なくなかった。
    ロック様も、子供の頃に会場を訪れた際には良く可愛がられたと自著にて写真付きで紹介している。
    また、日本マット界で長らく活動していたが、人種差別的な発言や行動があったとは全く聞かれず、関係者に友人が多かった。


  • 今や恒例となったWWE殿堂(WWF殿堂)は、元々はアンドレの功績を讃えるべく設立されたもので、今やWWEの歴史に留まらない業界の偉人にまで波及した同殿堂の第一号の受賞者となっている。


  • 新日本プロレスが保有していた外国人レスラー専用バスには幅が1mを超えるアンドレ専用座席が設置されていた。
    当然既製品にそんなバカでかい座席は存在しないため、座席メーカーの天龍工業に特注して作らせたもの。


  • 2017年に、新根室プロレスで別の種族ながらアンドレザ・ジャイアントパンダがデビューしている。

  • ゲーム「ファイナルファイト」に登場するアンドレのモデルは彼である。しかしアンドレの肖像権に引っかかるとして名前の綴りは「Andore」と一文字多く、後に「ストリートファイター」シリーズではヒューゴーと改名されている*6


追記修正民族大移動をお願いします。

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最終更新:2023年07月11日 12:46

*1 アンドレに限らず、この頃のプロレスラーには、誠しやかに囁かれる浮世離れした伝説が宣伝目的で付随していたのである。

*2 それから12年程後に、二人は全日本プロレスで再びツアーを共にすることになる訳だが、互いにこの時の相手の仕事ぶりを讃え合い、いつまでも話が尽きなかったという。

*3 キラー・カーンといえばWWFに参戦中の81年5月に当のアンドレの右足をダイビング・ニードロップで骨折させたとして名を挙げ、その後に因縁による抗争劇を演じている訳だが、実際にはアンドレがアクシデントで骨折していたのを、異変を察したカーンが試合を上手く収める為にニードロップを出したというのが真相で、アンドレは見舞いにきたやって来たカーンに対して試合での機転を称賛し、復帰後の抗争劇まで提案したという。こうした逸話からも、本来は人を傷つけることを好まない性格で、セメントを仕掛けたとされる前田戦でも、圧倒的な力で前田を幾度もはね除けながら本気で潰すことが出来なかった、とする意見の根拠となっている。また、この話からも解るように非常にプロレス的な考え方の出来る、豊富なアイディアの持ち主でもあったとのこと。

*4 体重の増加による膝の負担とアルコール中毒からか、晩年にはバギーバイクを日常生活の移動に使っていたという。

*5 ノーコンテスト裁定の為に了解済みだったらしいが、思った以上に強烈に食らわせられてしまったらしい。

*6 一応アンドレとヒューゴーは同一人物とされているが、何故か家族構成が異なっており矛盾している。