とんねるず

登録日:2023/03/17 Fri 23:33:00
更新日:2024/01/12 Fri 00:33:17
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とんねるずとは、1980年にデビューした石橋貴明と木梨憲武からなる日本のお笑いコンビである。


【概要】

ダウンタウンウッチャンナンチャン と並ぶお笑い第三世代の芸人と呼ばれることが多いが、前者2組よりデビューが早いことから、2.5世代と見る向きもある。
素人参加番組でデビュー後、1980年代後半に爆発的な人気を獲得した。コンビながらボケやツッコミの役割が無い。
それまでお笑い芸人に就くことのなかったスタイリストを用意したほか、アイドルやスポーツ選手相手にタメ口をきくなどの破天荒な芸風はその後のお笑い界に多大な影響を与えた。
師匠を持たないことに加え、養成所にも通っていないというお笑いとしては現在でも極めて特殊なポジションのタレントである。

オレたちひょうきん族』以降徐々に一般化しつつあった「内輪ネタ」「楽屋ネタ」に加え、「CX」(フジテレビの通称)や「ザギンでシースー」(銀座で寿司)等逆さ読みに代表されるテレビの業界用語を一般化させた。この経緯から、彼らのファンは「ワンフー」と呼ばれている。
自身の番組内ではディレクターやADといったスタッフを演者として起用することが多く見られ、後述するように野猿としてCDデビューも果たしている。
石橋も番組プロデューサーの石田弘氏、木梨も石田の後輩で、2022年からフジテレビの社長に就任した港浩一氏のモノマネをしていることでも知られる。
これに伴い、それまで業界内に存在したスタッフとタレントの弁当の差別を取り払った功績も持つ。
お笑い芸人でありながら音楽活動にも力を入れており、過去3回(木梨のみだと4回)『NHK紅白歌合戦』の歌手として出場したことがある。

所属事務所は現在の版権会社であるオフィスAtoZ*1→石橋が設立した個人事務所のアライバルを経て木梨も自らの事務所コッカを設立し、現在は両者所属事務所が異なっている。


【メンバー】

石橋 貴明(いしばし たかあき)

東京都葛飾区出身。通称は「タカさん」
とんねるずの司令塔を担当しており、コントや番組の企画については彼が全て考えている。
化学品を作る町工場の社長の子に生まれるが、幼少期にその工場が倒産してしまい東武東上線沿線の板橋区成増に引っ越すことに。
そこでデビューまで過ごしたため、成増関係のトークをすることが非常に多く、「成増」という曲も歌っている。

そして高校時代より既に素人参加型番組にて頭角を現しつつあり、同級生の木梨を誘いお笑い芸人になることを目指す。
あまりにも豪快すぎる性格をしており、『オールナイトフジ』 では「一気!」を披露した時に勢い余って100万円以上もするスタジオ用のカメラを破損させたり、『夕やけニャンニャン』にて観覧ゲストの素人とやり合ったり、おニャン子クラブの一部メンバーやゲストのアイドルに暴言を吐いたりと様々なことをしていた。
そのため暴れん坊キャラのイメージが強いが実は非常に几帳面な性格で、テレビで暴れる際には事前に楽屋挨拶を行うなど根回しをしっかり行っていた。なのでガチの暴れん坊は木梨だったりする
『うたばん』の司会を15年近く務めており、そこで中居との大野智との下克上コントを仕掛けさせたことも。
また、その几帳面な性格からか細かい描写のトークも得意としており、対談形式のトーク番組も持っていたことがある。
趣味は麻雀で、コント内では麻雀ネタを披露することもあった。

帝京高校の野球部に所属しており、プロ入りを目指して18歳の時に西武ライオンズの入団テストを受けるものの不合格。
プロ入りは断念したものの、芸人として大成した後選手との交友関係が生まれ、現在でもリアル野球BANで帝京の後輩達を交えてプロ野球選手と対決している。
そしてタカさんと野球関係では何よりハリウッド映画『メジャーリーグ2』で日本人選手「タカ・タナカ」役で出演したことが非常に有名。
映画が公開されたのが野茂英雄が近鉄からロサンゼルス・ドジャースに移籍するはるか前であるため、半ばジョークで「日本人初のメジャーリーガー」*2と言われることもある他、
本国でも「タカ・タナカ」は認知されており、本人が現地へ取材に行けば本作を見ていたメジャーリーガーからサインを求められたり、それを見た現地マスコミが「彼らがサインをねだる彼は誰だ?(要約)」とツイッターに投稿したり、コスプレをした観客が現れたこともある。

私生活では2度の結婚と2度の離婚を経験しており、2番目の妻である女優の鈴木保奈美との離婚は自身のYouTube内で発表。
また、最初の妻との間に設けた娘の石橋穂乃香は女優として活動している。


木梨 憲武(きなし のりたけ)

東京都世田谷区出身。通称は「ノリさん」
実家は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅にある自転車店「木梨サイクル」 で、後に彼の人気の恩恵を受けたのか、自転車販売だけでなくアパレル系やゴルフ用品、小物類なども販売するようになり、更には店の2階にはカフェも併設されるようになるなど事業が拡大している。
帝京高校のサッカー部に所属しており、東京都の予選メンバーにも選ばれるほど高い腕前を持っていたが、部室で未成年ながら喫煙したことを監督に見られ全国大会のベンチメンバーから外される罰を受ける。
その後粘り強く監督に謝罪し続けたことにより和解を果たす。

高校卒業後はダイハツのディーラーに入社したが、石橋に誘われ『お笑いスター誕生!!』にて4週勝ち抜きを達成したことにより芸人になるため退職。
前述の石橋に比べ一見常識人のキャラに見えるが、運動神経の良さを生かして突然相手に裏拳やキックをかますなどフリーダムな動きが多くみられる。
青春時代はキャンディーズのファンだったらしく、とんねるずの2人の親友でランちゃん(伊藤蘭)の旦那である水谷豊宅にキャンディーズの3人が集まると聞いた石橋が「アイツ、塀をよじ登ってでも行くんじゃないか!?」と評しているくらい。それくらい実は一度スイッチが入ると手が付け難いのである。
『おかげです』の『仮面ノリダー』や『生ダラ』の木梨憲太郎等冠番組で誕生した様々なキャラクターを演じており、前者は本家仮面ライダーシリーズの映画作品『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』に変身前のみだがまさかのゲスト出演を果たした。
芸術活動については現在も本人名義で定期的に個展を開催している。
またファッションセンスの良さやその自由な振る舞いから同業者からもあこがれの存在として見られており、ココリコの遠藤章造や見取り図のリリーが氏のファンであることを公言している。

ちなみにノリダーのサブキャラチビノリダーの伊藤淳史はまだ彼が4歳の頃に共演したからか、大人となった伊藤とゴルフで遊んだり、仕事で共演するといつも感慨深くなるそうである。
私生活では映画で共演した安田成美と結婚、3人の子宝に恵まれる。


【経歴】

2人は東京都の帝京高等学校の同級生同士である。
その頃木梨はサッカー部、石橋は野球部に所属しておりこの2つの部は部室内で一発ギャグやモノマネを披露するなど交流が盛んだった。
その中で互いが相手の部活で1番面白いやつと認識しており、これがコンビ結成のキッカケとなる。
実は2人とも高校生ながら素人参加型のお笑い番組に出演しており、特に石橋はアントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていたいわばセミプロであり、同番組で後に俳優となる竹中直人と競っていたことも。
高校卒業の記念として石橋が木梨を誘う形で、テレビ東京で放送されていた所ジョージ司会の『ドバドバ大爆弾』で素人枠として出演。
2人揃ってのテレビ出演はこれが初となった。

卒業後互いに別々の会社で就職したものの、日本テレビ系の芸人勝ち抜きオーディション番組『お笑いスター誕生!!』へのチャレンジを機に再会し「貴明&憲武」としてコンビを組む。
そしてプロの芸人が多くいる中、素人ながら4週目まで勝ち抜き、手応えを感じた2人は揃って会社を辞めプロデビューを本格的に目指すのであった。
そしてコンビを正式に組み、グループ名も「とんねるず」へと改め、同番組へプロ芸人として再出場するが10週目で落選。グランプリまでほんのあと一歩というところだった。
しかし諦めず、そこからグランプリを取るまで毎年出場し、2年後の1982年で念願のグランプリを獲得する。

以降は日テレの番組を中心に活動していたが、ある時日テレの番組プロデューサーと衝突し番組を降板、
所属事務所を通さず友人の結婚式の司会をコンビで引き受け、これを知った事務所社長が激怒して一時期テレビに出演できなくなってしまうなど本人達にも非があるとはいえ不遇の時期が続いていた。

しかし1983年転機が訪れる。
フジテレビにて若者向けの人気深夜番組となる『オールナイトフジ』がその年に放送開始され、そのレギュラーとして抜擢されたことによりテレビ復帰を果たす。
しかし些細なトラブルによりまたもや降板してしまうが、石橋曰く「誤解によるもの」だったためか半年後にレギュラー復帰。
その後とんねるずメインのコーナーが注目を集め彼らにも人気を集めるようになった。
遂には同番組の姉妹番組である『夕やけニャンニャン』が放送開始され、そこで彼らをレギュラーとして抜擢されることになったのだが、そこでハチャメチャな言動を見せ一気に知名度が高まることとなった。

なお、当時はスタッフや『オールナイトフジ』の出演者の大半が大卒または大学生であったことから「高卒」であることをギャグとして使っており、
自身の出演するコント番組では「街を歩いたらあらゆる場所に『高卒お断り』の看板が掲示されていた」という自虐的なネタを披露したこともある。
このネタは『ザ・ベストテン』に出演した際、共演した吉川晃司や小泉今日子から中卒(高校中退)であることを告白されると黙ってしまい、司会の黒柳からは学卒をネタとして使わないよう叱責されたこともあり以降は封印している。

この時出会ったのが、この『夕やけニャンニャン』発のアイドルグループ・おニャン子クラブ、そして21世紀になってからは48グループと坂道シリーズのプロデューサーとして知られるようになる秋元康である。
秋元はとんねるずの番組や音楽活動においてブレーンとして活躍。後述するように同世代の芸人と絡むよりも好きなことをさせた方が良いと判断したのも氏の意向で、これらがとんねるず独自のキャラクターを築き上げることになる。
秋元氏は作詞家としてもおニャン子やとんねるず関連のみならず、後述の美空ひばりの最後の名曲「川の流れのように」を手掛けたことにより名を上げていった。

そして80代後半から『ねるとん紅鯨団』『とんねるずのみなさんのおかげです』『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』といった冠番組が続々とスタート。
そのどれもが最高視聴率20%越えというバラエティ番組としては驚異的な数値を見せ、まさに人気を不動のものとした。
また90年代には音楽活動が評価され紅白に3度(木梨は4度)も出場した。

現在は人気が落ち着き、2018年春改編で『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終了した後はコンビでの出演はテレビ朝日系の年始特番『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』に限られている。
石橋は自身のYouTube「貴ちゃんねるず」およびABEMAの年一特番『石橋貴明プレミアム』と配信を軸に置き、木梨は水谷豊や後輩芸人と絡みつつ、ゲリラ的にインスタライブやテレビで活動中。

かつては長者番付*3の芸能人部門上位常連で知られ、やしきたかじんの冠番組では(放送時点での)露出とのギャップを指摘することが恒例となっていた。

独立の経緯から過去映像の使用については非常に厳しく制限されており、出演番組のCS再放送やDVD化等は2010年代までほとんど行われていなかった。


【音楽業】

彼らが歌手デビューしたのはなんとプロ芸人としてデビューした1981年の時である。
しかも、あの『ど根性ガエル』の新作アニメ『新・ど根性ガエル』のオープニングエンディング主題歌タイアップである。
新人歌手がいきなりアニメのタイアップはレコード会社の兼ね合いなどもありその辺はよくある事だが、彼らはこの年デビューしたばかりの芸人であるので、極めて異例の抜擢と言ってもいいだろう。
その後も曲を出し、3枚目となる1984年にリリースした「一気!」がまさかのヒット。
これを機に音楽活動を本格的に行うようになる。
翌年にリリースした「雨の西麻布」がオリコントップ10入りするなど大ヒット。音楽面も評価されるようになり、日本有線大賞やFNS歌謡祭、ゴールデン・アロー賞etc…その当時存在していた様々な賞レースにノミネートされ賞を獲得していった。
そしてTBSの『ザ・ベストテン』、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』、日本テレビの『トップテン』、テレビ朝日の『ミュージックステーション』といった各局の歌番組にも次々と出演した。
1989年には東京ドームにて単独コンサートを行ったことも。

90年代に入ると、1991年にリリースした「情けねえ」がオリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。これがきっかけでこの年に初の紅白出場を果たした。
しかし、パンツ1丁で「受信料を払おう」というペインティングをして出演をしておりこれが物議を醸すことになるものの、歌手別視聴率では2位*4を記録しており当時のとんねるず人気が高いことが窺える結果となった。
翌1992年には「ガラガラヘビがやってくる」リリース。ようやくオリコン1位を獲得することができた。
なお、この曲は元々『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマ用として書き下ろされ、性行為をモチーフとした作品であったためシングルリリースする予定はなかったが、
小中学生の視聴者達に受けた結果急遽サビ以外の部分も作りシングルリリースされたという逸話がある。

90年代中頃は木梨と石橋それぞれが様々なアーティストと組み、シングルをリリースさせていた。
その中で1996年に木梨が当時準レギュラーとして出演していた演歌歌手の山本譲二と「憲三郎&ジョージ山本」を結成、演歌界の大御所北島三郎が彼らの為に作詞作曲を手がけた「浪漫-ROMAN-」をリリースした。
それが20万枚のヒットを記録し、この年の紅白に出場することとなった。ちなみに木梨と山本譲二のユニットであるので相方石橋の出場は無かった。

1996年、石橋がSMAPの中居正広と共に司会を務めたTBSの歌番組『うたばん』がスタート。
その関係で1997年に放送開始された『とんねるずのみなさんのおかげでした』では、それをパロディとした「ほんとのうたばん」というコーナーが設けられた。
最初は当時の人気アーティストのMVを2人が完コピするというものだったが、KinKi Kidsのパロディとして、KinKiに扮する2人のバックダンサーに衣装や大道具等番組の裏方スタッフが複数名起用。
これがきっかけでとんねるず+番組スタッフ9人の計11人で音楽ユニット「()(えん)」が結成された。
シングル曲全11曲がオリコントップ10入りを果たし、3枚のアルバムも全てトップ5入りとなり、累計300万枚の売り上げを記録するなど音楽業としては久々の大ヒットとなった。
そしてこの大ヒットを受け1999年、2000年と紅白の出場も果たすこととなり、石橋にとっては8年振りの紅白出場である。
根強い人気が続いていたものの、2001年2月に本業への専念と人事異動から解散(撤収)を発表、同年5月に完全撤収ライブを行い惜しまれつつも活動終了となった*5

野猿解散から7年後、同じく『とんねるずのみなさんのおかげでした』にてDJ OZMAとタッグを組「「矢島美容室」を結成。
アメリカネバダ州から来た母子という設定であり、その為かアメリカの女性トリオ「ザ・スプリームス」を彷彿とさせる出で立ちをしていた。
デビューシングル「ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-」をリリースし、すぐにオリコントップ10入りするなど良いスタートを切れ、とんねるずとしても野猿以来久々のヒットとなった。
しかし残念ながら野猿のように紅白の出場には至らなかった。やはりDJ OZMAこと「氣志團」の綾小路翔が2006年での紅白にて放送事故を起こしてしまったことが原因だろうか。

現在は2人揃っての音楽活動は見られなくなったものの、それぞれがソロ歌手として音楽活動を継続している。


【交友関係】

彼らの最大の特徴は交友関係の広さで、芸人よりも歌手や俳優、スポーツ選手といった異業種人との交流が多い。
これはコンビで好きなことをさせて貰う方がタレントとして伸びると考えた戦略によるもの。
代表的な友人には水谷豊やチェッカーズ(特に藤井フミヤ)、田原俊彦、ヒロミ、武豊などがいる。
また、息子の加藤和也氏がファンだったことをきっかけにした美空ひばりとの交流も知られ、「夜のヒットスタジオ」上がりでひばりに呼び出され、説教を兼ねて自身のコンサート映像を5時間見させられたというエピソードも残っている。

先輩芸人についてはタモリとの共演が多い。
これは『お笑いスター誕生!!』の審査員時代、赤塚不二夫とともに「お前らなんだかわからねえけど面白い」と唯一2人を評価し、タモリに相談の上芸人の道を目指すようになったのが大きな理由で、
石橋は「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。
このため『ミュージックステーション』や『笑っていいとも!』へのゲスト出演が多く、後者については番組末期にテレフォンショッキングに出演した際にレギュラー入りを懇願し、それが通って不定期曜日レギュラーとして最終回まで出演するようになった。
所ジョージについても先述の『ドバドバ大爆弾』以来交流があり、「食わず嫌い王決定戦」ではとんねるずがプレイヤー、ビートたけしとともに進行役を担ったこともある。
とりわけ木梨は所を兄貴分と慕っており、所さんの番組へのゲスト出演やピンチヒッターを担当することもしばしば。

前述の通り後に登場するお笑い芸人にも多大な影響を与え、後輩ではナインティナインやバナナマン、おぎやはぎはとんねるず世代を自認しており共演する機会が多い。
一方、ダウンタウンについては殆ど共演機会が無く*6、2000年代以降ネット上で不仲説が大量に出回った。
2014年に『いいとも!』のグランドフィナーレで久々に共演した際は松本人志が「ネットが荒れる!」とネタにしたほど。
これは両者とも早々と売れっ子となりゴールデンで番組を持つようになったことで、共演させるメリットが色々な意味で存在しなかったことが一番の理由。
実際、浜田の子供と石橋の子供は同じ学校に通っており、顔を合わせる機会もあったという。


【冠番組】

とんねるずのみなさんのおかげです。

当時フジテレビの編成局長だった日枝久氏に「俺たちなら視聴率30%取れます!」と直談判して始まった。
1986年から特番を4回放送し、1988年10月にレギュラー番組としてスタート。
放送時間は木曜21時で、同枠で長らく人気を博していた『ザ・ベストテン』(TBS)を打ち切りに追い込み、そのまま90年代初頭のフジテレビの看板番組として君臨し一世を風靡した。
放送がバブル期ということもあり非常に潤沢な予算を投入した豪華な内容で、仮面ノリダーや貧乏家の人々、保毛尾田保毛男などといったコントキャラクターに加え、マイケル・ジャクソンやその妹ジャネット・ジャクソン等洋楽PVを完コピする企画もあり、M.C.ハマーの完コピ企画ではこのためだけにご本人を日本に呼び寄せて出演させたことも。
また当時実在していた(他局のものも含む)番組やCMをパロったショートコントも多く取り上げられており、上記の山本譲二との縁はそこから生まれたもの。
常連ゲストには宮沢りえや小泉今日子、観月ありさなど後に日本を代表する女優勢が出演していたことでも知られる。
1991年、ドッキリ企画を行った結果、膨大な数の苦情が殺到したこともある。
番組は1990年と1994年に2度の中断期間が存在し、2クールずつ別番組で穴埋めされた。
最初の中断は、2人が日本テレビで『火の用心』というドラマの主演をやることになりスケジュールが抑えられたため。
なお、この時つなぎとして製作された番組は『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』で、好評からゴールデン進出を果たしたのだが……
94年の中断は、番組で不法投棄関連の問題を起こしてしまいスタッフが処分を受け制作が出来なくなったためで、この時は別会社制作によるとんねるずのバラエティが放送された。決して石田プロデューサーの糖尿病が悪化したためではない。


とんねるずのみなさんのおかげでした

名前から分かる通り『とんねるずのみなさんのおかげです。』の後継番組。
フジテレビが河田町からお台場に移転することが決まり、2番組の間につなぎとなるとんねるずのバラエティ番組を半年放送したのちスタートした。
コントコーナーは廃止されたものの、「新・食わず嫌い王決定戦」「男気ジャンケン」「博士と助手 -細かすぎて伝わらないモノマネ選手権-」「2億4千万のものまねメドレー選手権」等といった人気コーナーが続々と誕生した。
晩年は芸人いじりの芸風が受けいれられづらくなったせいか視聴率も落ち、2018年3月に放送が終了。
しかし、先に挙げた各種企画のうち後ろ2つのコーナーは番組終了後も年に一度のスペシャル番組として継続されている。なお、どちらも木梨の出演はない。
この他、石橋のYouTube「貴ちゃんねるず」では本番組の企画の続編(飲食店訪問、自腹で買うシリーズ等)が配信されることも*7
野猿と矢島美容室が誕生したのも、この番組である。


ねるとん紅鯨団

前番組『上海紅鯨団が行く』の名前の一部を引き継ぐ形でスタート。
最初は前番組の内容を引き継いだようなものとなっていたが、集団お見合い企画が好評だったため以後集団お見合い番組1本の番組となった。
自己紹介の後の石橋による「貴さんチェック」や「ちょっと待った」コールは番組の名台詞として長年に渡り使われ続けてきた。
実は、彼女(彼氏)いない歴○年というワードが生まれたのがこの番組である。
声優、ナレーターの皆口裕子が初代ナレーターを務めており、彼女の出世作の1つである。


とんねるずの生でダラダラいかせて!!

出演者の発言を字幕として画面に表示するという手法を初めて本格的に導入した番組で、この手法は現在になお受け継がれている。
元は生放送のスタジオ収録の番組だったが、とんねるずのスケジュールに支障をきたすだろうという理由で完全にVTR収録による「パッケージ番組」へと変化した。
芸能人とカート対決を行う「生ダラKART GRAND PRIX」ではあのアイルトン・セナと対決を行ったり、木梨憲太郎関連の企画ではカプコン本社に直接赴き、憲磨呂というキャラクターを作り上げ『MARVEL SUPER HEROES VS. STREET FIGHTER』(日本版のみ)に実際に登場させるなどしていた。
また70年代初期に人気だった歌手にしきのあきら(現・錦野旦)を「スターにしきの」と称してドッキリ企画で徹底的にいじり倒し、やり方はアレだがトラブル続きで長い間低迷していた彼の知名度を再び上げている。

番組初期には後に地下鉄サリン事件を引き起こすことになるオウム真理教の教祖、麻原彰晃がスタジオに登場し人生相談をする「麻原彰晃の青春人生相談」のコーナーがあった。
既に弁護士一家を殺害していたが、その件はオウムの者がやったと断定されていなかったため、「選挙にも出た面白いおじさん」的な扱いをされていた時期である。
なお、この件はとんねるずの黒歴史でもあり、やはり思うところがあるのか未だに2人がこれについて話したことは一度も無い。


夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!

2000年からテレビ朝日で正月特番として長らく放送されているスポーツ番組。
『おかげでした』終了後は唯一となるとんねるずの地上波レギュラー番組でもある。
リアル野球BANやゴルフ、サッカーなどといった競技で、その競技のプロ選手と対決する。
コンビで出演するパートとソロで出演するパートが存在し、後者は帝京高校時代に野球部だった石橋がリアル野球BANで、サッカー部だった木梨がサッカー対決でその才能を発揮。
特に帝京OB+ゴルゴ松本チームとその(前の)年活躍した選手とドーム球場で対決する「リアル野球BAN」はタカさんやゴルゴのみならず、相手側、さらには杉谷拳士、山崎康晃を始めとする帝京サイドのノリの良さも相まって、看板企画に成長している。




追記・修正は「一気!」を歌いながらお願いするわっけだぁ!。

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最終更新:2024年01月12日 00:33

*1 ちなみに同事務所の社長だった秦野嘉王氏(2015年没)はバンド「ジ・エドワーズ」で大石吾朗らと共にプロデビューした後裏方に転向し、芸能事務所「芸映」で故・西城秀樹氏のマネージャーを務めていた経歴の持ち主。

*2 現実の第1号は村上雅則氏である。

*3 正式には高額納税者公示制度といい、2005年に廃止されるまでは新聞や雑誌でも掲載されていた。

*4 ちなみに1位は大トリを務めた谷村新司。

*5 なお、この時期に野猿ファンの福岡県内の女子高校生2人が解散にショックを受け自殺するという痛ましい出来事があった。

*6 野猿が他局の音楽番組に多数顔を見せても、なぜかフジテレビで放送していたダウンタウン司会の音楽番組『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』にだけ参加しなかった等。

*7 ディレクターに本番組と同じ人物が関与しているため。