玄狐稲荷

げんこいなり

種別
別名  
住所 北海道渡島松前郡松前町
特徴   松前志摩守道広は前右大臣花山院常雅の娘初姫を娶ることになり、明和8年11月2日に輿入れした。初姫は日頃から京都九条の稲荷を深く尊崇しており、彼女が蝦夷地へ赴く際には、稲荷神が道中守護のために俗人の目には見えないながらも多数の狐を付き添わせた。しかし、輿入れ後間もなく初姫は病死してしまった。 天明8年、南部の山伏大昌院は、不漁続きに心を痛めていた志摩守に箱館で百日の修行を命じられた。大昌院は厳冬期にも関わらず弁天浜の海中に飛び込んで経文を読誦する苦行を始めた。その夜から弁天堂の下には黒狐が籠るようになった。満願前夜の99日目の夜、黒狐は大昌院に「お前に頼みたいことがあってこの堂に籠り、99日の間、その機会を窺っていたのである」と語り始めた。黒狐は初姫について京都九条から来た狐の1匹で、初姫逝去後は他の狐達は故郷に帰ったが、自分は松前郡知内の狐と契りを結び子を設けて故郷へ帰らなかったのだと言う。そして天明2年、国主が狩猟のため知内を訪れた際に物陰から行列を眺めていたところを発見されて撃ち取られ命を落とした。しかしその魂は浮かばれないので、自分を一社の神としてくれたならば永く城の守護にあたるであろう、と藤倉八十八に伝えて貰いたいと大昌院に依頼した。そうして享和2年に福山の唐津内沢に勧請された稲荷社が玄狐稲荷で、知内の末社も玄狐稲荷と呼ばれた。
資料 『北方文明史話』中島峻蔵

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最終更新:2011年08月25日 01:10