Wikipediaの大先生の項

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加藤 嘉一(かとう よしかず、1984年(昭和59年)4月28日 - )は日本人コラムニスト。

== 経歴 ==
静岡県の農家の家庭に長男として生まれる。

山梨学院大学附属中学高等学校卒業。高校卒業後、北京大学へ留学、同大学国際関係学院大学院修士課程修了。過去、慶應義塾大学SFC研究所訪問研究者、鳳凰衛視|フェニックステレビコメンテーター、『フィナンシャル・タイムズ』中国版コラムニストを務め、現在、察哈尓学会研究員などを務める。

現在は、米ハーバード大学行政大学院・ケネディスクールのRajawali Foundation Institute for Asiaに、学期毎に少なくとも2750ドルを支払う必要がある、無給・自費滞在Rajawali Fellowとして留学中(2012年8月~2013年6月)とのこと。

経歴詐称学歴、職歴に関する記述がメディアによって異なるほか、また本人も「東京大学に合格したが蹴った」、「ハーバード大学にも合格したが東京大学に入学し、退学して北京大学に来た」などと矛盾のある発言をしている。『週刊文春』2012年11月8日号特集記事「“中国で一番有名な日本人”加藤嘉一氏に経歴詐称疑惑」においてそうした指摘を受けた加藤は、オフィシャルサイトにて経歴詐称を認め、「誤解を与えた」ことに対して謝罪した[8]。

このことは、中国国営テレビの中国中央電視台のニュース[9]や『人民日報』の国際版である『環球時報』[10]でも報道された。 この報道の後、レギュラーだったBS朝日『いま世界は』の「加藤嘉一が世界を見に行く」は、12年10月28日の放送を最後に放送がなくなり、『フィナンシャル・タイムズ』中国版の連載コラム『第三眼』[11]も12年10月30日で更新が止まっている。また、当代世界研究センター境外特約研究員[12]からも加藤の名前が消えた。  

「東京大学」について公式サイト[1]では「受験直前に、山梨学院大と北京大が学術協定を結ぶという話を聞きつけ」て両者の会談の場を訪れたとあるが、山梨学院大学と北京大学国際関係学院が学術協定を結んだのは2001年(平成13年)で、高校3年生だった2002年(平成14年)にそのようなことは不可能である。

自著《从伊豆到北京有多远》(江苏文艺出版社)には、センター試験の得点(国語180点、数学200点、英語198点、生物91点、世界史100点 合計769点)が記されており、その後「大学の2次試験も順調に突破し、私は合格しました、どこの大学かは、言いませんが、いずれにせよ東京の有名な大学です」(大学组织的第二轮考试也顺利过关了,我“中”了,哪一所大学,我就不说了,反正是东京一所很有名的大学)と記されているが、合格した大学の具体的な名前は書いていない。

一方、2009年(平成21年)1月発行の《南方人物周刊》(总第143期)インタビューでは、「最終的に、東京大学法学部に合格した。2003年、東京大学で一人の北京大学教授と出会い、19歳の加藤嘉一は法学部を退学、島国日本からある巨大な国家―ー中国に飛び立った。」(最后他考上了东京大学法学系。2003年,在东京大学认识了北大的一位老师,19岁的加藤嘉一从法学部退学。从岛国日本飞抵中国――ー一个巨大的国家)[13]と記載されている。

2010年(平成22年)3月に放送された騰訊網の番組では、「私は高校卒業後、東京大学に受かった。日本では、東大合格すなわち人生の勝者を意味する。だが私は自ら(東大を)蹴った。これについては相当の反発も受けた」(我当时高中毕业,考上了东京大学,对于日本来说,考上东大你已经成为赢者了。但是我主动放弃,当时受到的排斥是非常大的)[14]と発言している。

2010年(平成22年)11月発売の雑誌《大学生》では、“東大在学中の経験談”を語っている。「東大時代、周りにいる99%の同級生は社会の底辺でアルバイトをしていた。だから中国に来た加藤も当然の如く、北京大学校門前にあるマクドナルドでのアルバイトを選んだ」(在东大时,加藤嘉一身边99%的同学都有在社会底层打工的经历,所以来到中国后他依然习惯性地选择去北大门口的麦当劳打工)[15]。ちなみに、加藤が入学したとされる2003年(平成15年)の東大学内調査では、男子学生が携わるアルバイトの76.1%は、家庭教師や塾講師である[16]。また、中国のマクドナルドが、外国人を店員として在留資格に反してまで雇うことはまずない。

2011年(平成23年)3月に北京大学国際合作部留学生辦公室が発行した《留学北大》によると、「東京大学に入学してまもなく、北京大学の教授と知り合う。教授は彼を大変気に入り、公費留学を申請するよう求めた」(刚考上东京大学的他在东大认识了一位北大教授,教师非常喜欢他,邀请他申请公派留学)[17]となっている。

2011年(平成23年)5月に受けた鳳凰網の取材では、「2003年、彼はスポーツ特待生として東京大学に合格した」(2003年,加藤以体育特长生的身份考取了东京大学)[18]となっているが、東京大学はスポーツ推薦制度を導入していないので、入学は不可能である。仮に東京大学に入学したのなら、「2003年のSARSが猛威を振るう中、彼は北京大学の国際関係学院に入学」という体験は出来ない。

自著《从伊豆到北京有多远》(江苏文艺出版社)には、「北京に来た時期はすでにSARSが発生しており、毎日、SARSとイラク戦争のニュースばかりだった。私はネットでSARSに関する北京の最新情報を収集した」(由于我来北京的时候著名的“非典”已经发生,那段时间天天都是“非典”和伊拉克战争的新闻,每天都会上网去了解北京“非典”的最新情况)とある[19]。WHOが新型肺炎を「SARS」と命名したのは2003年(平成15年)3月15日、イラク戦争開戦は同3月20日、東京大学入学式は同4月11日。「北京大学教授と東大構内で出会い、東大を中退して北京大へ」という逸話には矛盾が生じる。また東京大学では学士入学でもないかぎり直接法学部に入学することはできず、1~2年次は原則学生の全員が教養学部に所属することとなる。そのため「19歳で法学部を退学」することは不可能である。

最近は中国でも加藤に対する経歴への疑惑が広がり、中国の検索サイトや各種ブログなどでも、その様子が容易に把握できる。2012年(平成24年)4月、福建省厦門市の華僑大学で行われた講演会にて聴衆より「高校卒業後、本当に東京大学へ合格したのか?」(你高校毕业后是否考上过东京大学吗)との質問を受け、「ここでの話、私の母校は北京大学。東京大学とは何の関係もない」(我在这里其实说,我的母校是北京大学,其和东京大学没有任何关系)[20]と話題をそらすように答えている。

2012年(平成24年)6月、インターネット・メディア『中国时刻』で放送された、加藤の言動を検証する番組《加藤嘉一:一个“混”在中国的日本人》[21]では、加藤の日中間における言論の矛盾と共に、加藤の経歴についての問題点や矛盾も指摘された。番組では、「既に今の加藤の声望は、胡錦濤に面会したとか(様々な人から)毎日数百通の手紙を受け取るといったような自慢や誇張によって自分を大きく見せる必要はないくらい大きくなっている。ある人は加藤のことを『彼のために中国人が作りあげた神壇である。(その神壇は)、たとえ彼が神でなくても、人々にそれが真実だと思わせた。しかし、今では彼は事実とあまりにかけ離れてしまった』と言った」(而加藤目前的声望已经无需要通过胡锦涛接见和每天收到几百封信这样的自诩来提高。有人说,“中国人为他造的神坛。哪怕他不是神,也会让人觉得真实,但是如今他偏离事实太远)と、加藤の発言の信憑性について疑問が投げられた。

「国費留学」について中国語を母国語としない北京大学の外国人留学生は、通常の入試のように筆記試験による選抜が無い代わりに、まず対外漢語教育学院と預科で中国語を学習して一定の水準に達したと認められ、はじめて北京大学の本科に入学出来る。2003年(平成15年)3月に対外漢語教育学院へ入学し、預科を経て本科入学まで1年半を費やしたことになるので、彼の当時の中国語水準は本人が言うほどは高くは無かったと推察される。なお、入学直後にSARSの蔓延が発覚した影響で授業がストップしたとしているが、他大学では6月以降に随時補講を開き、遅れの無いよう措置を取っている。

自著『われ日本海の橋とならん』では、山梨学院大学付属高校にやってきた北京大学の担当者に自己アピールして「北京大学初の国費留学生」となったとあるが、中国教育部の国費留学制度(中国政府奖学金来华留学生)は1984年(昭和59年)、国家教育委員会が改めて制度を整え、1990年(平成2年)から外国人留学生の受け入れを開始しているため[22]、既存の国費留学制度とは異なる手段を利用した可能性が考えられる。また、同書ではじめて中国側の国費留学である事を明らかにしている。

2006年(平成18年)12月に受けた、中国国際放送ウェブサイトの取材記事[23]では、「北京大学国際関係学部1年生、北京大学日本人会会長、文部科学省国費留学生」となっているが、自著『われ日本海の橋とならん』の中国側の国費留学であるとする記述と矛盾する。また、日本側の国費留学を取り扱う日本国際教育協会(2004年度から「日本学生支援機構」に改称)の「留学生交流支援制度」[24]によれば、国費留学生の募集対象は大学院生であり、学部留学生に相当する「本科生」は対象にしていない。したがって、加藤には応募資格がないため、受給は不可能である。ちなみに「留学生交流支援制度」による「国費留学」は、大学学部以後の直近の学業成績が一定基準以上を満たしていないと応募できない、新規採用数が年間30人程度と少ないことなど、難関なことで知られる。

2009年(平成21年)年4月の『鳳凰時尚』の取材[25]では、「加藤嘉一は北京大学の学生。日本政府派遣の留学生で国際学院の本科で勉強している、」(加藤嘉一是北京大学的学生。作为日本公派留学生在国际关系学院就读本科、)となっているが、これも自著『われ日本海の橋とならん』の記述と矛盾する。

「胡錦濤から求められ面会」について2012年(平成24年)2月まで公開されていた公式プロフィールの年表には「2008年(平成20年)5月:胡錦濤が訪日3日前に北京大を訪れ、面会を求められる。この様子が人民日報の一面に。」とある[26]。今でもメディアでは「胡錦濤が最も信頼する男」「胡錦濤が一目置く男」「胡錦濤もブログ読者」などの枕詞が使われるが[27][28]、加藤と胡錦濤に関する逸話にも注意が必要である。

胡錦濤が、個人的に加藤との面会を求めた事実は存在しない。胡錦濤が2008年5月3日に北京大学を訪れた理由は、同学創立110周年を祝う公務の一環で(※毎年5月4日の五四青年節前後、中国の国家指導者は教育機関を視察する慣習がある)、加藤は奉迎した大勢の留学生のひとりにすぎなかった。胡錦濤視察を報じた新華社と『人民日報』の2008年5月4日配信記事も、「学生寮の中ではイェール大学からの留学生・明鴻凱と北京大学の学生・張引が勉強しており、胡錦濤はベッドに腰掛けて彼らと歓談した」(宿舍里,来自耶鲁大学的留学生明鸿凯和北京大学学生张引正在学习。胡锦涛在床上坐下,同他们促膝交谈)[29]とあるだけで、「面会を求められ」た加藤は名前すら記されておらず、自著である『われ日本海の橋とならん』にも「翌日の『人民日報』は一面記事でこの話題を伝えることになる。(中略)訪日を前に「北京大学で学ぶ日本人留学生」である僕と面会する姿を見せることは、中国国民に対する日中友好のメッセージだ。しかし、党幹部に「それ以上の目的があったこと」は間違いない。」とあるが、集合写真にその姿を確認できるだけである。

本人もブログには、「何日か前に北京大学留学生辦公室から、5月3日は必ず時間を空けよとの電話を受けた。朝9時に留学生宿舎勺園で教師と会い、そこで初めて、留学生代表のひとりとして胡錦濤の訪問を出迎えるということを知った。(※中略)胡主席とは10秒前後握手し、自己紹介した。主席は私が日本人留学生だとわかり、反応してくれた」(我前几天接到了北大留学生办公室的电话,今天一定要把时间空出来。早上9点钟在北大留学生宿舍勺园与老师见面,才知道我的任务,原来是作为留学生的代表之一,迎来胡主席的访问。(※中略)我跟胡主席握了手大概10秒钟,自我介绍了一下。胡主席发现我是日本留学生,就有所反应)[30]と記してあり、胡錦濤から「面会を求められた」逸話と事実は大きな隔たりがある。

共産党首脳部との関係について上記の「胡錦濤との太いパイプ」から、中国共産党首脳にも情報源を持っていることを臭わせる文章を何度も書いているが、失脚直前の劉志軍の手腕を絶賛しており、また、2012年の共産党は「何もしないことが最大のテーマ」と書いた翌週[31]に薄熙来事件が起きている。これだけでも首脳部に情報源があるとは到底考えにくい。

薄熙来事件は政治局常務委員会でも直前までもつれたこともあり、一年前に失脚自体を察知するのは不可能なので、加藤が薄を評価することを責めるのは酷である。

しかし、薄が展開した「重慶模式」(重慶モデル)を呼ばれる低所得者層向けの賃貸住宅建設は、実際は「打黒」で不当に逮捕された富裕層から没収した財産によってまかなわれており、唱紅歌と呼ばれる中国共産党革命歌を熱唱するイベントを「完璧にコレクトなやり方」[32]とし、「中国ナンバーワンのカリスマ政治家」と評価するなど[33]、重慶市当局が当時行っていた主張をなぞるだけとなっている。

「慶應義塾大学SFC研究所上席所員」について自著『中国的逻辑:一位日本青年所看到的中国』やオフィシャルサイトには「慶應義塾大学SFC研究所上席所員」と書かれていたものの、慶應義塾大学SFC研究所の公式HP内「訪問研究者」のリストにその名前を見つけることができるが「上席研究所員」に就いたことは確認できない。[34]その後、オフィシャルサイトは「慶應義塾大SFC研究所上席所員(訪問)」と表記を改めている。2013年4月1日に更新された「訪問研究者」のリスト[35]から加藤の名前は消えた。

「北京大学朝鮮半島研究センター研究員」について自著『北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言』などで「北京大学朝鮮半島研究センター研究員」という肩書きを使用しているが、北京大学に同名の研究センターは無い。[36]なお、同学には類似名称の研究機関「北京大学韩半岛研究中心(Peking University Centre for Korean Peninsula Studies)[37]」が存在するが、加藤が多用している「北京大学朝鮮半島研究センター(北京大学朝鲜半岛研究中心。英国で開催のフォーラムには“Research Center for Korean Peninsula Studies,Peking University[38]”を使用)」との関連性は無く、彼が「~韩半岛研究中心」で研究に従事した事実も認められない。

2011年12月15日のオルタナSによるインタビュー記事では、「加藤嘉一さんは、「中国で一番有名な日本人」と呼ばれる。北京大学研究員として教鞭をとりながら、27歳の若さで英フィナンシャル・タイムズ中国語版コラムニストとして活躍する。」[39]と紹介されているが、下記に見えるように、加藤は北京大の研究員ではないので、「北京大学研究員として教鞭をとる」という経歴はあり得ない。

『環球時報』2012年11月1日付記事は、「北京大学朝鮮語学科も10月31日、環球時報記者に対し、「同学科の韓半島研究センターが加藤氏と共同で研究を行ったことは、過去に一度もない」と証言した。」(对此10月31日北京大学朝鲜语系也向《环球时报》记者予以证实,并表示该系的韩半岛研究中心从未和加藤有任何形式的合作。)[40]と報道した。

また『新京報』2012年11月2日付記事は、北京大学韓半島研究中心副主任・王元周のコメント「加藤は当研究所の正式な研究員ではなく、加藤嘉一が南京大虐殺に関する発言で議論を起こしたときに加藤が研究員という身分を使用していることを知って連絡の上、その使用を辞めさせた、加藤嘉一もそれに同意した」(加藤嘉一不是该机构的正式研究员,他们在今年加藤嘉一因为南京大屠杀相关言论引发争议时,才知他在使用这一身份,并已发送信函,让其停止使用,加藤嘉一也表示答应)[41]を掲載した。

一連の報道が有った後、米ハーバード大学行政大学院・ケネディスクールのRajawali Foundation Institute for Asiaの加藤の経歴ページから以前はあった「Research Center of Korean Peninsula Studies, Peking University」の記述がなくなった[42]。 一方、自身の公式HPのプロフィールでは「北京大学研究員(2010.9~2012.6)」[43]という肩書きを依然として使用している。

「北京大学教員」について加藤の日本での初めての著作である『中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか』を出版したディスカヴァー・トゥエンティワン取締役社長の干場弓子の2011年2月22日のブログに「『中国でもっとも有名な日本人』加藤嘉一さん(現在まだ26歳! 北京大学国際政治学の教員。北京大学における史上最年少教員だとか)が、また北京より来社!いうまでもなく、右側。真ん中は、編集担当ミタニです)。というのも、彼の本が、来月出るから!」[44]と加藤との写真を載せた上で紹介しているが、加藤が北京大学の教員であった事実は認められない。

「ハーバード大学フェロー」について2012年(平成24年)5月5日、台湾の新聞『聯合報』によって、「加藤が同年8月から米ハーバード大学行政大学院・ケネディスクールの研究員(Research Fellow)に就任[45]することを明かした」(今年八月,加藤嘉一要去美國哈佛大學甘迺迪學院當研究員(research fellow))と報じられた。『フィナンシャル・タイムズ』中国版の寄稿家プロフィールにも「(同学の)客員研究員に任じられている」(现任哈佛大学肯尼迪学院客座研究员)[46]とあり、日本でも本人が2012年9月10日のダイヤモンドオンラインにて「ハーバード大学ケネディースクールにフェローとして赴任し、2週間が経った。」[47]と述べているが、実際には、米ハーバード大学行政大学院・ケネディスクールのRajawali Foundation Institute for Asia[48]に、学期毎に少なくとも2750ドルを支払う必要がある[49]、無給・自費滞在[50]のRajawali Fellow[51]として留学中[52](2012年8月~2013年6月)とのこと。

柔道全国大会出場と入賞について自著《从伊豆到北京有多远》(江苏文艺出版社)には、小学3年生時に柔道を習い始め3か月で全国ベスト4入りし、全柔連の幹部に「柔道界期待の星になる」と絶賛されたと記載。一方で『中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか』やオフィシャルサイトには半年でベスト8と記述し矛盾が指摘されている。2012年11月8日号の週刊文春記事によると、全柔連の主催する全国少年柔道大会の結果を確認したところ加藤の名前は見当たらなかったとのこと。

南京大虐殺論争における立場2009年(平成21年)、陸川監督によって製作された中国映画『南京!南京!』が公開された際、自身のブログに、映画を撮影した陸川監督に「敬意を表す」と題した記事を掲載した[53]。映画の日本に対する影響について、「…“南京大虐殺は事実ではない、そもそも存在しなかった”、あるいは“虐殺はあったが、30万という数字は不当に誇張され、政治化されたものである”と主張する極右分子の怒りを買うことになるだろう」と述べ、いわゆる南京大虐殺論争では虐殺者数について30万人以上であるとの見解を支持している。

2009年(平成21年)、10月の英語でのインタビューにおいて「日本人は原爆を落とされたから被害者であるという意識が強いので、南京のことは考えたくないのだ」[54]と答えている。

2012年(平成24年)、加藤氏は自著「致困惑中的年軽人」の発売に伴って、江蘇省南京市のある書店でサイン会に出席した。その際、ファンからの質問に答え、「南京大虐殺の真相については不明である」といった主旨 で日中両国に一考をうながす発言を行った。これについて、中国国内ではインターネットを中心に抗議が殺到。今後、全国複数個所の書店で予定されていた同氏のサイン会を中止するよう求める声も挙がった。 「今回の加藤氏の発言内容に対し、不快感を持たれた方が多数いらっしゃることについて、当社としても問題視しております。いかなる作家や著者の個人的言動について干渉する権利を持たないとはいえ、当社の催事で発生した騒動であることには変わりはなく、読者の皆さんに心より謝罪したい所存です。騒動の詳細について把握に努めますと同時に、今後予定していたサイン会については中止することを決定いたしました。国内で一定の影響力を有する出版社として、我々はあらゆる思想や言論を許容し、多元的な文化を支持する方針ではありますが、それでも中国の一民間企業として、民族的感情というものを最低限のモラルとして有しております。中国が日本に侵略された歴史、ひいては第二次世界大戦の記憶というものは、永遠に忘れ去ってはならないものであり、軍国主義や独裁政治に対する警鐘を鳴らし続けるものであります」。[55]

なお、中国大手サイト百度の百度百科[56]では 立场:日本右翼人士,怀疑南京大屠杀真实性以及在日侵华时期所作出的劣行让中国人需要反思。鼓吹钓鱼岛是日本固有领土,并且以此为借口在其微博讽刺中国人为何没有诺贝尔奖获得者。 (訳)立場;日本の右翼家、南京大虐殺の真実性及び日本の中国侵略時に行った卑劣な行為に対し疑念を抱き中国人に再考させるようにした。尖閣諸島は日本固有の領土と吹聴し、且つそれらを言い訳に中国人はなぜノーベル賞を取れないのかとツイッターで批判する。 と過激な内容が問題発生後編集された。

反日デモについての見解2011年(平成23年)8月に「日本では政府主導の「官製デモ」という言葉をよく耳にしますが、いまの中国ではありえません。これは100%自信をもって僕がいえることです。若者の反日感情は中国政府にとって“諸刃の剣”であり、すでに愛国教育を見直そうという動きすら出ているほどです。」。[57]と発言し、2012年(平成24年)8月におこなわれたトークイベント[58]でも「2005年と2010年、そして直近の2012年にもいわゆる反日デモが起こった。あれ、官製デモって言われて、中国共産党が民衆を煽ってやらせたと言われる。それが主流の見方のようです。でも、ぼくから言わせれば、反日感情を一番怖がっているのは、ほかでもない中国共産党なんですよ。反日感情が社会に充満すると、それはやがて反共産党になる可能性がある。」と発言し、現在の中国で官製デモはあり得ないという発言を繰り返し主張していた。

しかし、2012年(平成24年)9月に2005年、2010年を超える規模の反日デモが発生し、反日デモによる日系企業の破壊が起きた後には、「中国国内で起きている反日デモが表象に過ぎない。すべての表象には背景がある。構造がある。そして、黒幕がいる。」、「中国共産党は、民衆のナショナリズムを利用して、日本に圧力をかけたいとは考えている。」[59]と発言し、前述の発言とは正反対の矛盾した発言をしている。

李小牧、莫邦富による批判2011年7月6日号『ニューズウィーク日本版』に、共著を出版したばかりの李小牧が「中国で一番有名な日本人、加藤嘉一君への手紙」[60]と題するコラムで加藤の中国における発言を批判し、ツイッターなどで擁護派と批判派が生まれた。中国語で書かれたコラムや中国における言論はほとんどの日本人の目に止まらないので、李の指摘は的を射ていたものの、加藤への批判派は李コラムの尻馬に乗って批判を加える者が多く、また、加藤の擁護派も言動ではなく加藤が中国で中国語を使って発信しているという行為を評価していたので、両者はかみ合わなかった。

李は具体的には指摘していないが、加藤は、ウイグル自治区のウイグル人への学校教育について、中国語だけを使ってプレッシャーを与えることで中国語を習得させるべきであると主張したり[61]、「中国の社会変革が、政府の土地収得のコストを増加させている。日本と同じように収用が出来なくなる前に、急いで高速鉄道を建設するのが賢い選択だ」(中国的社会变革正在增加政府获取土地的成本。在变得像日本一样没法征地之前,抓紧时间继续修建高铁将是明智的选择。)と述べ、中国政府による土地の強制収用を肯定するなど[62]、日本の常識からみれば非人道的ともとれる発言が見られる。

また、李は2012年12月12日号『ニューズウィーク日本版』に「日本メディアに叩かれた加藤嘉一君へ2通目の手紙」[63]と題する、加藤批判のコラムを再び発表した。そこでは、最初の加藤を批判したコラム掲載の後、加藤から「今後は李さんの貴重な意見を参考にしたい」というメールを送って来たこと、12年6月に東京都内の大学で開かれたシンポジウムで加藤と李の2人が招待された際には、加藤がこっそり事務局に電話をして「李さんを外して出演者を僕一人にしてほしい」と要求していたことを明かした。その上で「君が中国でコラムニストとして語ってきた内容は、要は人民日報の社説そのものです。中国メディア、そして背後にいる中国政府は、自分たちの主張を代弁してくれる便利な日本人として君を利用してきた」と、そして「今の加藤くんに残っているのは、自分の目的達成のために平気で人に嘘をつく中国人の悪い習慣だけ」と加藤を再び批判した。

2011年10月、莫邦富は鳳凰網のブログに「加藤嘉一は日中市民に虚偽情報を流すな」(加藤嘉一不要对中日民众传递虚假信息)と題した文章を発表[64]。同年8月に開催された日本IBM主催の伊豆会議(有識者会議)において参加者から「中国は大国だ。だが東日本大震災直後、中国が派遣した国際緊急援助隊はわずか15人。台湾ほかの小国よりも少なかった。なぜか」 (中国是个大国,在311日本发生大地震后,却只派来了区区15人的救援队,比台湾甚至其他小国都要少得多。这是为什么?)と問われた加藤が「胡錦濤、温家宝 が大規模な救援隊を送れば人民の不満を引き起こすかもと考え、少数しか派遣できなかった」(那是胡锦涛、温家宝政权怕派出人数众多的救援队去日本救援会引起中国老百姓的不满,所以才派出这么一个小规模的救援队)と答えた逸話を挙げ、「私は自分の耳を疑った。これはまさしく黒を白と言う(是非を逆さにする)、事実を無視したものだ」(听到这个回答,我吃惊得不敢相信自己的耳朵,这简直就是颠倒黑白,罔顾事实了)と厳しく批判した。

その他2012年10月発売の古市憲寿との共著『頼れない国でどう生きようか』で、「中国では図書館の本は公共の物だから線を引いてもいい」と発言をしているが、中国に於いても図書館の本に線を引くこと(中国語で「划线」は線を引くの意)は本を汚す(毀損する)行為として禁止[65]である。
加藤は中国滞在中に、マクドナルドやケンタッキーフライドチキン(KFC)などファーストフードでバイト[66][67]した、留学「半年後には中国語の翻訳を始め、生計を立てるまでに至」[68]るなど翻訳・通訳[69]をして金銭を得ていたことを各所で発言しているが、中国で外国人留学生が労働やアルバイトに従事することは禁止されている行為である。また、「中国語もままならなかった私は、ひたすら頭を下げ、大学付近のケンタッキーフライドチキン(KFC)でアルバイトをさせてもらうことに成功した。担当はポテト。言葉ができないから、当然、レジで注文を取る役割など任せてもらえない。時給は8元(約100円)だった。人目を盗んで、目の前で作っているポテトを、ときどき口の中に放り込んだ。」[70]と語っている。
著書中『七日谈:来自民间的中日对话』(山奇との共著。07年8月、新华出版社)
中『日本走向何方』(小原雅博『国益と外交』の訳書。09年1月、中信出版社)
中『以谁为师?—一个日本80后对中日关系的观察与思考』(09年6月、东方出版社)
中『从伊豆到北京有多远』(10年6月、凤凰出版传媒集团,江苏文艺出版社)
中『中国,我误解你了吗?』(10年8月、华文出版社)
日『中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか』(11年3月、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
日『常識外日中論』(李小牧との共著。11年4月、メディア総合研究所)
中『中国的逻辑:一位日本青年所看到的中国』(11年5月、云南人民出版社)
台『愛國賊』(11年5月、大塊文化出版股份有限公司)
日『われ日本海の橋とならん』(11年7月、ダイヤモンド社)
中『如果高中棒球队女子经理读了彼得・德鲁克』(岩崎夏海『もしドラ』の訳書。11年9月、南海出版公司)
中『日本的逻辑』(11年11月、光明日报出版社)
日『いま中国人は何を考えているのか』(12年2月、日本経済新聞出版社)
日『北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言』(12年2月、講談社)
中『加藤嘉一:致困惑中的年轻人』(12年4月、凤凰出版社)
日『脱・中国論 日本人が中国とうまく付き合うための56のテーゼ』(12年6月、日経BP社)
香『日本鏡子』(12年10月、明報出版社)
日『頼れない国でどう生きようか』(古市憲寿との共著。12年10月、PHP研究所)
日『逆転思考 激動の中国、ぼくは駆け抜けた』(12年10月、集英社)



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最終更新:2013年04月17日 11:38