水木しげる

登録日:2011/09/18 Sun 01:01:41
更新日:2024/01/07 Sun 09:41:08
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水木しげるとは

本名 武良(むら) (しげる)
1922年3月8日~2015年11月30日
鳥取県境港市
大阪府大阪市住吉区生まれ)

日本生まれの漫画家兼妖怪研究家兼妖怪である。
1950年代より活動しており、妖怪漫画、戦争漫画を主としている。
代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』『のんのんばあとオレ』など。
国内外で様々な賞を受賞している。

陸軍二等兵として戦争を体験したのち、終戦後より紙芝居、貸本漫画などを執筆。その後、商業誌デビューし、妖怪を扱った作品により人気作家となる。

また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任、調布市名誉市民にも選ばれている。
さらに、水木しげる記念館が境港市に作られた。
はっきりと言ってしまえば、後発の妖怪に関する創作の表現や演出の大半は全て水木しげるによる研究による独自の考察や彼自身によるオリジナルとして作られた設定の影響に基づいたものである。
(まっ平な「ぬりかべ」、人間の姿をしている「砂かけ婆」、そもそも伝承自体疑わしい「がしゃどくろ」、複数の他者の創作物を合成して作り上げたオリジナルの妖怪とされる「バックベアード」など)
先人の描いてきた妖怪像を現代に甦らせさらに新たな妖怪像を創りあげた、鳥山石燕らと並ぶ妖怪史に残るであろう妖怪絵師である。

水木しげるといえば、逸話の多さで有名である。

5歳の頃のある日、「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとしたが、
近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、大叔母に「やいと(灸)」をすえられた。


殺人未遂である。


殺 人 未 遂 で あ る 。


大切なことなので2回言いました。
やっちゃだめ。絶対。


高等小学校卒業後に印刷所に住み込みで就職するが、朝早い仕事のため睡眠不足となり、
寝そべっていた主人の頭を座布団と間違えて踏みつけ、クビになった。
その後、別の就職先では、自転車での外回りの途中、太鼓の製作光景を一日中眺めるなどのサボりっぷりが問題視され、またクビとなる。

この頃から絵が得意であったため、美術学校に進んで画家になろうと思い、その前段階の学歴のために園芸学校を受験するが、
50人募集に対し51人の応募があり、水木のみが不合格になった
(筆記試験の出来が悪かったわけではなく、面接試験において、
 将来の目標についての他の受験生の模範解答が「満蒙開拓義勇軍に入ります」だったところ、
 水木は「画家になります」と正直に答えたためではないかと推測されている)

また、彼は戦争経験者であり、20歳の時、徴兵検査をうけ、21歳の時に招集を受け、本籍地の鳥取連隊に入隊がきまった。
軍隊生活でもマイペース振りを発揮し、その大胆な態度から風呂で将校と間違われて古年兵に背中を流してもらったが、
間もなく新参の二等兵とばれて、張り倒された。
当たり前である。

失敗の連続だったため、ビンタ・ビンタで初年兵教育を終え、ラッパ卒になったが、ラッパは上手く吹けず、配置転換を申し出た。
最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から

「北がいいか、南がいいか」

と尋ねられた。
水木は寒いのが嫌いなので

「南であります」

と答えた。
てっきり九州など国内の南の連隊への配属だと思っていたが、南方のラバウル行きが決定し青くなった。
(なお、そのままラッパ卒を続けていれば、終戦まで内地に残れたはずだった)
上司の質問に気軽に答えちゃだめということを、身をもって教えてくれた。
さすが水木先生である。

ちなみに水木の部隊以降、ラバウルに派遣された部隊は全て途中で敵に沈没させられた(つまり水木の部隊がラバウルに辿り着いた最後の部隊だった)という。
なお、この時パラオ―ラバウル間を運んだ船は「信濃丸」。
1900年に竣工し、日露戦争でも活躍した、当時の船齢40年以上の老朽船である。
水木が「触っただけで船体の鉄板が欠け落ちた」とか。よく着けたな…

ラバウルに着いてからも、殴られるのは日常茶飯事だった。おかげで、「ビンタの王様」というあだ名がついたという。

戦時中、先生はマラリアを発症する。療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。
妖怪よりも恐ろしい話である。

現地住民にも親切にしてもらい、マラリアもすっかり良くなった先生は、駆逐艦隊にて復員した。
このとき彼を乗せたのが妖怪同然の異能生存体、雪風である。
前述の信濃丸も戦争を生き延びていたりするなど、彼の関わった船も強運持ちであった。

片腕を失ったことに対して水木は、

「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」

と語り、さらに

「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」

という問いには

「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」

と答えている。
さすが水木先生である。

ちなみに両親は、

「右手で何でもするような子だったから、ちょうどいい」

と答えている。
さすが水木先生の両親である。

終戦後、職を転々として貸本漫画家を始める。「水木」のペンネームは当時大家をしていたアパートの名前から取った。
しかし鳴かず飛ばずのまま、気付けばもう39歳。実家からは心配され、お見合いをすることに。
ところが見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚(当時細君は29歳)。
これが、後の『ゲゲゲの女房』である。

水木先生に、奥さんのどこがいいのか質問したところ

「ほら、空母みたいで安心するでしょ。顔が。」

と答えている。
失礼きわまりない。

子供が生まれても相変わらずの貧乏生活のまま、水木はペンを走らせ続けた。
その時に描かれたのが貸本版『悪魔くん』や『墓場鬼太郎』であり、革命的な描写が多いのもルサンチ…本人の想いだったのだろう。
1965年、『別冊少年マガジン』に掲載した読切漫画『テレビくん』が好評を博し、講談社児童まんが賞を受賞。この時既に43歳。
同年に『マガジン』に掲載された『ゲゲゲの鬼太郎』は当時の怪獣ブーム、怪奇ブームも手伝って爆発的なヒットを記録し、
あれよあれよという間にアニメ化が決定、一躍国民的マンガに。
こうして水木は遅咲きのスタートを飾ることとなったのである。
何分、メジャーデビューが遅かったのもあり、本人が頑として夜更かしや早起きをしない体質のため、
一番忙しかった時期には庭の柿の木を数秒眺めるくらいしか休憩が取れなかったとか。

80年代以降はネームと下描きのみを担当しペン入れを村澤昌夫や森野達弥といったアシスタントに任せる事も多くなったが妖怪画の色塗りに関しては生涯こだわり続け、彩色を担当した村澤氏が重ね塗りをした所「薄い方から塗らないとダメだ」とダメ出しし以後色塗りは任せなかったという*1

そんな水木先生、名言を残すことで有名である。


  • 以下名言
自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いに対して
「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。
 どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」

「好きなことをしなくて、生きている意味がありますか」

「眠ってる時間分長生きするんです。『睡眠力』こそ全ての源ですッ!!」
→「…というわけで手塚、石森両氏は早死にしてしまったんだなあ」
ちなみに同じく長命の漫画家であったやなせたかし先生も、水木先生の意見に賛同している。(更に両者は従軍経験のある遅咲きの漫画家、という共通点もある。)

また、水木先生には、兄と弟がいるが毎日午後4時に自宅に集合し、お茶会という名のモクモクと甘いものを食べる会を開いている。
なお、兄は2歳上、弟は2歳下で、2014年に全員が90代となった。


食べ物に関しては、ベビイの頃から大食漢で、その食事の姿から「ズイダ」と呼ばれていた。
好物はすき焼き。天麩羅は苦手らしい。超が付く下戸で、酒は全く飲めない体質。
その食欲は90歳を過ぎても衰えることはなく
「メガマック」、「ドミノピザ」、「ケンタッキーフライドチキン」等を平らげていた。

子供は2人姉妹がおり、姉は母にどこか似た普通の顔、妹は水木先生似の顔で漫画に描かれている。
ちなみに後に水木先生の次女・手塚治虫の長女・赤塚不二夫の娘が対談した時
「手塚家の息子*2が水木漫画等怪奇ものを見て喜んでいる頃、水木家の姉は手塚漫画を見て喜んでいた」と明かしている。



自宅の近くにある本屋に水木しげるのコーナーがあり、ちょくちょく来店しては自分のコーナーから本を買って行くらしい。
また、自分のコーナーから宣伝用のポップまで持っていってしまう。

2015年11月11日に自宅で転倒し、頭部を強打。急性硬膜下血腫となって緊急手術を受けた。
一時は回復傾向にあったものの、30日に容体が急変し帰らぬ人となった。享年93。
90代ともなればやはり、怪我したときのリスクも大きいのである。
怪我をするまでは90代でありながら元気な姿を見せておられただけに、この最期は残念でならない。
遺作は、死の半年前まで「ビッグコミック」で連載された『わたしの日々』となった。

なお、生前から冗談半分に「生ける妖怪」として名を馳せた水木先生だけあり、
訃報が伝えられた当時、各種SNSなどでは
「ついに本物の妖怪になったか」
「取材旅行ですね、お気を付けて!」
「新天地でのさらなる御活躍をお祈りします」
と、実に和やかな追悼のコメントが飛び交った。





追記・修正したければ、させてあげればいいじゃないですか。
彼らは好きでそうするんですから。

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最終更新:2024年01月07日 09:41

*1 村澤氏の証言より

*2 自主制作映画に父のコネで水木先生や楳図かずおをゲスト出演させていて、手塚と先生が共に映る珍しい写真が残されている