ベトナム戦争

登録日:2012/07/06 Fri 16:00:59
更新日:2024/04/15 Mon 16:25:09
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<概要>

ベトナム戦争(英:Vietnam War)とは、1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた、
南ベトナム(ベトナム共和国)と北ベトナム(ベトナム民主共和国)による武力衝突を指す。

実際のところ資本主義勢力である南ベトナムを支援するアメリカ(とその取り巻き)と、共産主義勢力である北ベトナムを支援する中国、ソ連の代理戦争。
冷戦時代を代表する戦争としても知られる。


アメリカは、1500億ドルもの巨額の戦費と年間最大54万人の軍人を派遣し国の威信をかけて挑んだが、結果は北ベトナムの勝利に終わる。
アメリカ軍はベトナムの地から撤退を余儀なくされた(戦略的撤退などと言うが、ある意味で涙目敗走である)。

もっとも正義の国(自称)を追い払うための代償は大きく、南北ベトナムの死者は合計300万人以上とも言われる。


10年以上続いた戦争にもかかわらず開戦から終戦までの経緯や、勢力の変遷や政治との絡み合い、戦闘一つ事件一つ取ってもどれも一項目できる程の密度であるため、
年表と経過だけを記載する。


<年表と経過>

1858~1887年
  • フランス、段階的にベトナムを含むインドシナ一帯を植民地化。

1940年
  • ナチスドイツ、フランスに侵攻、制圧。フランスで親独路線のヴィシー政権成立。
  • 日本、中国国民党を支援する援蒋ルートの遮断を目論みベトナム北部へ進駐(北部仏印進駐)。

1941年
  • 日本、仏領インドシナ一帯に進駐を拡大(南部仏印進駐)。ベトナムは事実上日本の支配下に入る。

1945年
  • 第二次世界大戦終戦。終戦後ホー・チ・ミンが独立宣言をし「ベトナム民主共和国」樹立。
    宗主国フランスは「独立宣言とか認めねーからな」と「ベトナム国」樹立。

1949年~1953年
  • 第一次インドシナ戦争。中国共産党の支援を受けた北ベトナム優勢。
    中国共産党主導のもと南北を縦断しついでにラオス国境もまたぐ(国際法違反です)ホーチミン・ルート、建設開始。

1954年
  • ジュネーブ協定。“17度線”*1での南北分断が事実上固定化。

1960年
  • 南ベトナム解放民族戦線(通称「ベトミン」。「ベトコン」は南ベトナムと米軍側の蔑称)結成。

1961年
  • ケネディがアメリカ大統領に就任。
  • 南ベトナムに軍事顧問団を派遣。介入開始。

1962年
  • 米軍が「南ベトナム軍事援助司令部」を設置。介入度上昇。
  • 南ベトナム、ラオスと国交断絶。

1963年
  • アプバクの戦い。圧倒的な装備と兵力を持つ南ベトナム軍が大惨敗。
  • 仕方なく米軍の本格参入が決まる。
  • 南ベトナム政権に抗議するため、仏教徒の僧侶が文字通り決死の焼身自殺を行う。
  • これに対し、南ベトナム大統領の弟兼顧問の夫人が「イカれたBBQだね(ニッコリ」と発言。
  • 舌禍と無能さに嫌気がさしたアメリカの黙認の下、南ベトナムで軍事クーデター発生。大統領と大統領顧問の兄弟は仲良く蜂の巣に。
    なお舌禍やらかした大統領夫人は国外に脱出した模様。
  • ケネディ大統領が暗殺。大統領職はケネディ政権の副大統領だったリンドン・ジョンソンに引き継がれる。

1964年
  • 南ベトナムで再びクーデター(2年連続2回目)。
  • アメリカ、自ら北ベトナム領海に侵入していたくせに魚雷攻撃を食らったと唐突にキレる(トンキン湾事件)。
    のちに、その半分がアメリカによる自演であったことが判明*2。知ってた。張作霖爆殺と柳条湖の猿真似だね。
  • 韓国軍、参戦!!
    後にアメリカもドン引きの残虐行為を繰り返すことになる。

1965年
  • アメリカ軍、北爆開始。頭に来た北ベトナム、国を挙げての戦時体制に突入。キレちまったよ…
  • アメリカ海兵隊が、最前線の都市ダナンに上陸。一大軍事基地、意訳すると格好の的を建設する。
  • 日本で「ベトナムに平和を!市民連合」、所謂ベ平連結成。世界的な反戦運動の中心に。

1966年
  • 北ベトナムに対しB-52による空襲開始。調子に乗るも他国から非難殺到。
  • またベトコン狩りとして、この頃からアメリカ軍は「サーチアンドデストロイ」戦術でナパーム弾や枯葉剤を撒きまくる「人道? なにそれおいしいの?」な行動に出る。
    当然のことながら非難轟々。

1967年
  • ベトコンが「ここが弱点です」と自己主張するダナン基地を攻撃。
  • カンボジアで中国出資によるシアヌークビル港の拡張と近代化が完了。カンボジアを介することで中国のベトミン支援ルートが強化される。
    シアヌーク*3「港も新しくなったし直接戦争には参戦しないしでいいことづくめじゃん」
  • 選挙では麻薬密売組織の元締めが南ベトナム大統領に就任。不正は無かった。
  • ケサン基地攻防戦開始。米軍が苦労して守り通すも、後にコストがかかりすぎるとして放棄。大いなる無意味。

1968年
  • 北ベトナム軍による一大博打「テト攻勢」が始まり南ベトナム全土に火の手が。
  • 要塞とまで言われたアメリカ大使館がわずか20人ほどのベトコンに一時占領される映像が世界中に流された後で、
    ジョンソン大統領は高らかに「米軍大勝利宣言」という高度なギャグを披露。こういうのを日本語では「大本営発表」と言います。
  • 有名なソンミの虐殺発生。どのくらい有名かと言うとブラック・ジャックゴルゴ13でネタにされるくらい。発覚後、米軍が正義なんて言い出す輩は鼻でpgrされることになる。
  • テト攻勢に絡みベトナム国内の実態が世界中に報道される。北ベトナムサイドも人的被害は凄まじかったが、反戦運動が世界中に広まり、政治的・戦略的に大きな成果を上げることとなった。
  • ジョンソン大統領、もうムリポとベトナムからの撤退を宣言し、ようやくパリで和平交渉開始。「名誉ある撤退」という理由付けのために奔走するはめに。

1969年
  • 和平交渉の開始に伴い、北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表。
  • 北ベトナム指導者、ホー・チ・ミン死去。アメリカ、はしゃぐ。北ベトナム、悲しみを乗り越えレベルアップ。

1970年
  • 南ベトナム軍とアメリカ軍が補給線破壊のためカンボジアに侵攻、シアヌークは失脚し親米政権樹立。
    「国際法違反?なにそれおいしいの?」
    これが、後に小さな地獄を生み出す
    またこの件で戦争拡大と勘違いされて反戦運動が更に広がることに。

1971年
  • 南ベトナム軍とアメリカ軍が補給線破壊のためラオスに侵攻。
  • ニューヨーク・タイムズ紙がノンフィクション小説「ペンタゴン・ペーパーズ」の連載を開始。
    政府機密文書が公開されて、ゴリ押ししてきたベトナム戦争の正当性が全く無かったという裏設定がネタバレされることに。

1972年
  • 講和条件を有利にすべくアメリカ軍、5月8日に北爆再開(ラインバッカーⅠ作戦)。
    戦力の集中投入や本格的な戦略爆撃、そして投下されたカンストしそうな程の爆弾により北ベトナムにかいしんのいちげきを叩き込み、交渉のテーブルにつかせることに成功。
  • 一方その頃アメリカ国内では、ニクソン政権野党の民主党本部ビルに盗聴器が仕掛けられる事件が発生。その時から怪しまれてはいたが、後に大スキャンダルになる。
  • アメリカ軍、12月18日に北爆再開(ラインバッカーⅡ作戦)。今度は世界中から非難轟々で、早々に中止された。

1973年
  • 前年の盗聴器事件の内情が暴露され、アメリカ史上最悪のスキャンダルウォーターゲート事件が発覚。
    大統領による犯罪行為犯罪行為アンド犯罪行為発覚で国家を挙げた一大炎上案件になる。
  • パリ協定が締結されついに停戦。ただし事実上米軍撤兵までの期間限定。南ベトナムは反対していたが、そりゃこの状況で米軍が撤退した後の保証をしてくれるものなんか何もないし。
  • 13年間の国家的罰ゲームを終えたアメリカ軍がベトナムから撤兵。韓国など取り巻き共も逃げ帰っていった。

1974年
  • 北ベトナム軍がプノンペンを包囲。親米勢力を追放すると同時に南への侵攻ルートゲット。
  • ニクソン大統領、ウォーターゲート事件で辞任。晴れて“終身名誉死刑囚”となる。
    後任のジェラルド・フォードは「南ベトナムはポイ-で」の路線をとり、南ベトナム陥落は時間の問題となる。

1975年
  • 3月下旬、「嘘つきとの約束を守る義理など無い」と言わんばかりに北ベトナム軍が総力を挙げて南ベトナムへ総攻撃。
    案の定南ベトナムのライフポイントは限りなくゼロに近くなっていたためひと月半あまりで各所が陥落して虫の息に。
  • 4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落。南ベトナム政府の死亡が確認される。
    ベトナム戦争終結
  • サイゴン市をホーチミン市へ改名。


<戦後>

アメリカは、超大国としての地位が大きく揺らいだ。帰還兵問題などの内政問題は、未だ解決していないものも多い。
またアメリカ産業も弱体化し、逆に前の大戦の敗戦国である日本や西ドイツ、また朝鮮戦争で国土がボドボドになった韓国はアメリカ相手の商売でチートレベルの経済成長を遂げ、ここに新たな貿易摩擦が発生した。

ベトナムについても戦争のダメージと統一後の混乱により、1980年代後半まで戦争の傷跡から抜け出せなかった。
しかもこの戦争の最中に、北に隣接する中華人民共和国が仮にも共産主義国家でありながら、ソ連と対立してアメリカと接近するという「東西冷戦」をあざ笑うかのような大事件(「中ソ対立」「ニクソン訪中」)が発生。
中国の南に隣接していて、かつ親ソ路線のベトナムとは当然のように新たな火種が勃発する。
さらに隣のカンボジアではこの世の地獄が出現していた
そもそもベトナムと中国・カンボジアは歴史的にも仲が悪く、結局この両国とも戦争をする羽目に。


<余談>

  • 当初、アメリカはテレビの情報発信能力と視聴者の感受性(鵜呑みも吟味も込みで)を甘く見ていた。
    だが蓋を開けてみれば、戦争の悲惨さを"動画"としてガンガン垂れ流しまくり、米国の内部からまで批判がやってくる始末。
    これが戦争終結に一役買ったと言われている。
    アメリカもこれを教訓に80年代からせっせと大資本によるメディア買収に勤しむことになった。
    事実その後の湾岸戦争では開戦直後から多くのメディアが戦争支持に回った。
    イラク戦争でも同様の展開だったが、今度はそれがアメリカをベトナム戦争並みの泥沼に引き摺り込むことになってしまった。
    戦争から学ぶべきことは他に幾らでもあった気がするのだが…

  • 戦闘機におけるミサイル万能論の否定や正式ライフルのM14から性格の違うM16への交代など、軍事史・兵器史へ与えた影響もまた強い。

  • 帰還兵問題が生じた一因には兵の教育プログラムの改善にもあるともいう。
    要点をかいつまむと、第二次世界大戦などでは戦場に出ても発砲しなかった兵も多く、
    それを問題視してより多くの兵が戦うように訓練(フルメタルジャケットのハートマン軍曹スタイル)させたら戦場に出た後の精神悪化に影響を及ぼした……という訳。


<関連作品>





この戦争で犠牲になった人々への哀悼と、平和の想いを込めながら追記・修正をお願いします。

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最終更新:2024年04月15日 16:25

*1 ほぼ北緯17度線に沿っていることからこう呼ばれるが、実際にはその近くを流れて北緯17度近くで海に流れ込む川がその境界で、朝鮮戦争前の南北朝鮮とは異なり文字通りに緯線で南北が分断されていたことはない。

*2 アメリカは駆逐艦「マドックス」が8月2日と4日の2回にわたって攻撃を受け、「1発までなら誤射かもしれない。2回目はアカンすよ!」と主張したが、実際には2度目の攻撃は存在しなかったことが判明している。2日の攻撃(南ベトナム軍と間違えての誤射)はほんとにあったようだが、そもそも領海に侵入していたアメリカ軍がなんか言える筋合いではない

*3 王族出身のカンボジア首相で反米路線