任天堂

登録日:2011/01/16 Sun 00:44:51
更新日:2024/04/15 Mon 03:40:37
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(Nintendo®︎

概要

1889年に京都府で創立、1947年に設立した、日本を代表するゲーム開発会社
創立当時は花札屋で社名は任天堂骨碑。
本社所在地は京都府京都市南区上鳥羽鉾立町11番地1。

実は社名の由来はハッキリと分かってはいない。
三代目社長の山内溥は自身の経営哲学から「人事を尽くして天命を待つ」又は「運を天に任せる」から来ているのではないかと語っていた。

創立時は花札、トランプを作っており圧倒的シェアを獲得したが、
三代目社長に就任した山内溥がアメリカ最大手のトランプ会社を視察に行った際、
最大手であるにもかかわらずオフィスの規模が想像以上に小さかったことに衝撃を受け、
「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、多角経営の道を模索することになる。
が、ベビーカー、タクシー、インスタントライス等*1の事業で悉く失敗。
多額の借金を抱え明らかに迷走していた。

1970年代からは上記の黒歴史を教訓に玩具専門になり*2、ウルトラハンド、テレビゲーム15、ゲーム&ウォッチ、ドンキーコング等のヒット作を生み、
アタリショックが起きた1983年に発売した、伝説の据え置き型ハードであるファミリーコンピュータの大成功で、世界中で知らない人の方が少ない程の知名度になる。

最新の据え置きハードはNintendo Switch、携帯ハードはSwitchの携帯特化型モデルNintendo Switch Lite。*3
同世代の他社ハードと比べて性能は控えめだが、任天堂ハードらしく今までにない特徴を備え、新たな遊び方を提案しているのが特徴。

◆社史

ファミコン以前はアタリの周辺機器を開発していた。そこでアタリやフェアチャイルド社のハードを日本に輸入しようと試みたが失敗。自社でゲームハード開発を行う事になる。
当時色んなゲームの類似品(要するにコピーゲーム)をアーケードで出していた。現代でこそ考えられないが当時はおおらかな時代だったのだ*4
「遊び方にパテント(特許)はない」という山内社長の言葉は有名。
ちなみにその後システムが似ていても開発者が同じであれば盗作には当たらない事が証明されたが、それはそれで別の話。
ただその裁判での判決では、タイトルを似せて続編と勘違いさせる事は違法というものでもあったので、あくまでもゲームデザインを別会社で使う事のみである。

なお、池上通信機とのドンキーコングの裁判事例でもある通り(ユニバーサルとは別件)1984年以前は日本におけるゲームプログラムの著作権は誰に帰属するのか曖昧で、法整備が未発達だった。
ゲームのソースコードに法による明確な著作権が認められたのはファミコン以降である。

ファミコン時代ではスーパーマリオブラザーズを筆頭に多数のヒット作を輩出。それから今日に至るまで、数々の名作を生み出し続けており、ゲーム業界の大切なファクターであり続けている。
一方で、サテラビュー 64DD モバイルアダプタGBといったかなり知名度が低いサービスがあったりした。
いずれも時代背景を加味すると技術的には優れた製品だったが、出すタイミングを見誤って普及せずに終わった。しかし後のサービス展開には反省も含めて間接的に影響を与えている。

現在はゲーム機とゲームソフトの開発・販売がメインとなっているが、もともとの「本業」であるトランプや花札、囲碁と将棋の関連商品、麻雀牌などの製造・販売も継続して行っている。
これらの商品はホームページにも記載があり、一部はインターネット通販で買うことも出来る。
2013年秋にはポケモン花札、2016年にはスプラトゥーントランプを出すなど、自社キャラクターの製品を手がけることも。
ちなみにポケモンカードゲームはトランプの製造ラインを活用して製造されている。

2014年経営方針発表会において、豊富なキャラクターIPをゲーム事業以外にも活用していくことを宣言。
宣言通り、翌2015年には米NBCユニバーサルとの間で任天堂のIPを活用した遊園地を作ることに基本合意した。
その後2021年に「SUPER NINTENDO WORLD」を大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に開業。2023年には米国でも開業し今後はシンガポールでも開業する予定である。
それ以外では直営店舗として「Nintendo TOKYO」を東京の渋谷に2019年11月に開店。2022年11月には「Nintendo OSAKA」として大阪の梅田に出店。
東京・大阪以外でもたまに期間限定で出店することもある。なお日本国外では米ニューヨークに2005年から存在している。
地元の京都には「Neintendo KYOTO」に加え宇治小倉工場の跡地を活用し「ニンテンドーミュージアム」を開館する予定。

映像事業としては米イルミネーションとの間でマリオのアニメ映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を製作。日本では2023年4月28日に公開された。
任天堂の本格的な映像事業としては、初の作品でありながら公開8週目にして国内興行収入120億円を突破。観客動員数839万人を超える大ヒット作品となっている。
その後、10年前から企画が進んでいたゼルダの伝説の実写映画をArad Productionsとソニー・ピクチャーズ エンタテインメントの間で制作することを2023年11月に公表した。

2010年以降は企業買収をする機会も増えており、2011年のモノリスソフトの完全子会社化を皮切りに、日本国内の任天堂商品の専門商社の「ジェスネット(現・任天堂販売)」、カナダの「Next Level Games(2以降のルイージマンションシリーズなどの開発会社)」、ファミコン時代からの協力会社「SRD」、CGアニメーション制作会社の「ダイナモピクチャーズ(現・ニンテンドーピクチャーズ)」を買収している。
また買収では無いが、デジタル部門の強化のためにスマートデバイス事業で協力関係にあったDeNAと合弁で新グループ会社「ニンテンドーシステムズ」を2023年4月に設立した。

かつてはメジャーリーグのシアトルマリナーズのメインオーナーであった。
これは1992年にマリナーズのオーナーが撤退して球団解散の危機を迎えた際、山内が今までシアトルにアメリカ法人を置かしてくれた恩返しとしてポケットマネーでオーナーになったためである。
現在は、一部の出資分を残して他者へと売却している。

◆ソフト開発について

自社開発(ファーストパーティ)では「スーパーマリオ」「 マリオカート 」「ゼルダの伝説」「どうぶつの森」「ピクミン」「Splatoon」等が代表的。
インテリジェントシステムズ(通称・IS)やハル研究所(通称・ハル研)、ゲームフリーク(通称・ゲーフリ)、モノリスソフト等のほぼ任天堂専門のサード(通称・セカンドパーティ)を多く抱えており、こうしたセカンドパーティ製(外部製作)の作品では「メトロイド*5」「ファイアーエムブレム(IS)」「星のカービィ(ハル研)」「ポケットモンスター(ゲーフリ等)」「大乱闘スマッシュブラザーズ」「ゼノブレイド(モノリスソフト)」等が代表的。
近年は他社で発売されていた作品の販売を引き継ぐこともある(「BAYONETTA」や「桃太郎電鉄(一時期)」、「」など)

近年ではサードパーティとのコラボタイトルや開発を任せることも多い。特にコーエーテクモとは非常に仲が良く「零」シリーズが任天堂との共同開発になった他「ポケモン」「メトロイド」「ゼルダ」「ファイアーエムブレム」などの任天堂の看板タイトルにも携わっている。

ハードメーカーとしてゲーム業界を牽引する存在だけあって、ゲーマーからの任天堂ブランドへの信頼は厚い。
ゲームの出来はファースト・セカンドともにかなり安定しており、賛否ある作品こそあれど所謂クソゲーと呼べるものはほとんど無い。
中でも、レベルデザイン(難易度設計)とプレイヤーの誘導に関しては突出して秀でており、易しすぎず難しすぎず、腰を据えてきちんと挑めば攻略できる絶妙に楽しめるラインの作品を出すことに定評がある。
ごくまれに無茶苦茶な難易度の場面が「みんなのトラウマ」としてネットの話題に上がることがあるが、ゲーム全体がそうである、といったケースはない。
裏を返せば「無茶苦茶な難易度のステージが出てくることが話題にされるくらい珍しい」ということである。

発売するゲームソフトは基本的に人を選ばず。ライトユーザーでも取っつきやすい作品が多い。
特にWii以降は同機のローンチタイトル『Wii Sports』を始め、実際に体を動かして操作をするゲームを数多く世に送り出している。
一方、巨大な敵を切り刻む過激な演出で「D(17歳以上対象)」の区分を貰った北欧版地球防衛軍こと『斬撃のレギンレイヴ』、トレジャー謹製の激ムズ&癖の強い操作の『罪と罰』、バグ技が開発の時点で公式化している『F-ZERO GX』、萌えグロアクションRPGの『パンドラの塔』、癖の強い内容で前作ファンから賛否両論な『ゼノブレイドクロス』、終始シリアスで殺伐としている『メトロイド』シリーズ、「死んだキャラは原則復活できない」というハードコアなゲーム性を特徴とする『ファイアーエムブレム』シリーズといったそれなりに人を選ぶ作品も出している*6

また、任天堂のソフトばかりが売れすぎて、サードパーティのソフトが売れなかったハードも多い。その傾向はNINTENDO64からWii Uまでのハードに顕著。
中でもWii末期~WiiU時代はサードのソフトがほとんど出ない状況が起こり、自社で全ジャンルのソフトをまかなう必要に駆られた。*7
上記のような人を選ぶマニア向け作品がこの時期に多めなのはこのため。

一方、携帯ゲーム機は開発のしやすさや競合の少なさなどからサードに飢えることは少なく、ニンテンドー3DSの時は普及速度が鈍ったため発売直後に当初価格の6割に値下げするなどの苦戦*8はあったものの、結果的には軌道に乗り、コンスタントに人気を集めている。
またSwitchにおいては上述の通り携帯ハードも兼ねており、また外部の開発者が参入しやすい環境の構築に勤めるなどしたことで長年の問題であったサード不足はかなり改善されている*9

ゲームキューブ~Wiiの頃は既存IPの続編が中心のソフト展開を「マンネリ」と捉えられることもあったが、2015年の「Splatoon」や2017年の「ARMS」など、ここ数年は新規IPの投入も多い。「ファイアーエムブレム」シリーズの方針転換の成功*10を口火として、2017年以降「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」がゼルダの「アタリマエを見直す」というコンセプトの下に大きなシステム改革*11を行ったり、「スーパーマリオ オデッセイ」が久々に箱庭探索型に戻るなど、シリーズ作品でもマンネリ打破への動きが本格化している。
また2010年代中盤以降はスマートデバイス事業の強化の一環で自社ハードに拘らずAndroid/iOS向けにもFE、マリオカートやピクミンなどのゲームを出すようになった。

◆権利関連

著作権に厳しい事でも有名*12
1999年にポケモンの同人誌を書いて捕まった人がいる程(経緯に関しては諸説有り)。
ただし作品やプロデューサーの意向にもよるようで営利色が強くない二次創作などについてはやや軟化しているところもある。
ゲーム配信については公式でガイドラインが公表されている。2022年現在は基本的に容認しておりYouTube等での収益化も認めている*13
任天堂のゲームを用いた大会についても2023年にガイドラインが公表され、非営利かつ小規模な物はガイドラインに沿えば認める姿勢を取っている*14

肖像権・特許に関しても抜かりなく、民事訴訟を起こすこともしばしば。
そのためマリカー裁判など任天堂が絡んだ裁判は話題になることが多い。
これらの対応は本社の知的財産部(旧称:法務部)が主に管轄している。

同様に情報漏洩(リーク)に関する対策・対応も(当然だが人一倍)しっかりしている。
『キャッスルヴァニアアドバンスコレクション』のようにレーティング審査にかけたのが見つかったので開発が発覚という仕方ない物は多少あるが、大概が『Nintendo Direct』でのサプライズ発表である。
スマブラSPが発売されるという話、同作が全キャラ集合になるという話、DLCでどのキャラが出るのかという話、全てをリーカーから守りきってニンダイでの発表に成功している。
あまりにもサプライズが多いのでニンダイ放映時間のツイッターは大いに盛り上がる。
また、海外では情報漏洩をした人物が訴訟されており、中には懲役刑が科せられた者も。

◆関係人物

  • 山内溥
3代目社長で、任天堂創業者の曾孫。
根っからの京都人であり、喋り方も京風の関西弁。見た目も中身も色々な意味で親分肌な人物故に通称は組長。でも横文字大好きで強面の風貌なのにちょっと高いハスキーボイスである。
1949年に2代目である祖父が病に倒れ、急遽弱冠22歳で社長になって以来、岩田聡を後任として退任する2002年までの実に50年以上に渡り社長を務めていた人物。
一花札企業に過ぎなかった任天堂を世界的大企業に育て上げ、現在の任天堂の礎を築いた中興の祖であり、ゲーム&ウオッチ・ファミコン・スーファミ・ゲームボーイ等の成功で知られる。
これらは電子ゲーム事業に至るまで様々な失敗を経てきたからことに基づく理念であり、任天堂の理念はすなわち娯楽の本質であり、娯楽産業の儚さを常に達観していた。

自身の直感と経験から積み上げた独自の哲学に基づく判断や発言が多く、これが任天堂哲学の基本にもなっている。そのおかげで電子ゲームにおいてはスーファミ時代まで他社を寄せ付けない成功っぷりを見せた。
所謂ワンマン社長という独裁的なやり口であったが、無茶な命令は出しても「部下の失敗はそれを決定した自分の責任」と言い切るなど、
その決断力と厳しい中にある任侠人情的な一面から一種のカリスマ性を持っていた。
宮本茂を始め「社長の喜ぶ顔がみたいから頑張ってる」とニコニコ顔で豪語していたのは当時を知る人には有名な話。
ポケモンやFEのプロデューサーを担当した出石武宏に至っては、昇格して山内と話す機会が増えたことで「好きですね、ますます好きですね。だってすごいもん」とコメントした程の心酔っぷり。

一方で64時代では独特の思想が仇となりサード離れなどの問題を作った張本人。だが、その時代ですら赤字は出していない。(ポケモンのヒットとそれに伴うメディアミックス化や64の北米での普及が成功したため。)
今でこそその名を知る人も減ったが、様々な豪胆なエピソードや発言、その予言めいた先見性から当時のゲームファンの一方からは深く愛された。
しかしもう一方からはPS全盛時代に一切盛り返せず、サード製のゲームが遊べなくなったことで任天堂の日本展開に暗い影を落とした、として蛇蝎の如く嫌われていた人でもある。

任天堂の発展に大きく関与した横井軍平や岩田聡、宮本茂といった人物を見出したりとかなりの人を見る目を持つ。
なおテレビゲームをより世間に普及させた立役者ではあるが、専門知識は一切持っていない。開発には意見こそ出すが携わらず、電子ゲームをプレイすることすらほとんど稀だった。
ただし「娯楽産業は必需品ではない」を念頭に娯楽商売事業の儚さを身に沁みて知っている人物であり、とにかく時勢を見る目が鋭い。
ゲーム&ウォッチが全盛期というタイミングで早々に見切りを付け、その売上金でファミコンの開発に舵を切ったり、ポケモンは任天堂の手に余ると別会社を設立*15したり、
特に近年注目されているのは「大容量+映像にのみ尽力するゲームばかりでは開発費用だけが無駄に高騰し、いずれ中小のソフト会社がバタバタと潰れる(要約)」と在任中に何度も提唱したこと。
この提言をしていた当時はPS1が無双していた時期だったので、「PSの隆盛に対する僻み」とゲーマーらからは嘲笑されたが、
実際、90年代末期から2000年代初期の世の中はその通りの流れになってしまい、おまけに青天井となっていた難易度の上昇傾向や
内容の複雑化なども合わさり、ゲーム離れが進んでしまっていた*16
そして、組長を本気で怒らせた某RPG会社を任天堂出禁にしたりもした。一応在任中に話を付けて和解してるけど。
これに加えてハードよりソフトを重視するべきという考えを強く持っており*17、ハード性能の安易な高性能化も良しとしていなかった。
(それ故、64も「あまり好きなハードではない」と後に回想している)
任天堂がハードメーカーであるにもかかわらず、質の高いソフト開発に注力しているのも、この考えに基づいている。
ロード時間等を気にしてカセットに固執していたことも有名で、これがソフトの高価格化に繋がったため忌み嫌われていた。しかしこれも結果論ながら後のゲームキューブやSwitchを見れば、彼の思想が一概に誤りでなかったことを表している*18

引き際も弁えており、世襲ではなく内部の人材から新社長を決めるという異例の手法で、岩田聡を新社長に据える。
その後相談役に退いて以降は表舞台に出ることはなかったが、退任後に発売されたDSの二画面構想、3DSのコンセプトは山内のアイディアによるものらしい。
ただしアイディアこそ出したがタッチパネルの採用など、ヒントから商品として昇華させたのは現場の人間であるとのこと。
特に飛び出す3Dが好きで、バーチャルボーイがお気に入りだったとか。(「飛び出さへんのか?」と宮本によく尋ねていたらしい。)

また篤志家としての一面もあり、上記のシアトルマリナーズのオーナーになる、メジャーの最多安打記録を更新したイチローに御祝儀として任天堂株を5000株プレゼントする、新棟建築に際して京大病院に75億円を寄付する、ベンチャーのゲーム企業を支援する投資ファンド「ファンドキュー」を設立したりしていた。
「遊び方にパテントはない」などの迷言発言を含めて一言一言は有名だが、ニュースなどの露出が少なかったこともあってか、山内が「試作機ゲームボーイを床に叩き付けて耐久値を試した」等の所謂『任天堂伝説』は噂レベルの話に尾ひれがついたものが多数ある。
2013年、85歳で死去。自身が資金を寄付した京大病院で最期を迎えた。
弔事は岩田聡が読み、「滅多なことでは褒めてくれなかったが、良い報告ができた時の嬉しそうな顔を見た時は何者にも代え難い喜びがあった」「怖いイメージがあるが魅力的な笑顔を持つ人だった」
と故人を偲び、とある海外のゲームサイトでは「彼の記念碑を見たいなら、周りを見渡せばすぐそこにあるはずだ」と粋なコメントで追悼した。

「任天堂哲学」と呼ばれるものは概ね山内の思想を基本としており、後任の岩田も「自分の役目は山内さんの考えをわかりやすく伝えること」と言っていたこともあるほど。
逝去後、10年以上経った23年以降もその哲学は殆ど変わらず継承されており、開発的には門外漢ながらこの点からも娯楽産業という観点で非常に優れたと言えるだろう。

  • 宮本茂
マリオシリーズやゼルダシリーズといった今なお続く人気作品の生みの親。
長きに渡って任天堂の主要ソフトタイトルの開発を担当する情報開発本部*19の本部長を務めるなどゲームソフト開発者としての印象が強いが、
スーパーファミコンのコントローラーのLRキーやNINTENDO64の3Dスティック(アナログスティック)を提案したりとハード開発にも関わっている。
代表取締役フェロー*20に就任した辺りからは、後任にソフト開発を任せ自身は「SUPER NINTENDO WORLD」や「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」など、ゲーム分野以外での自社IP活用に携わっている*21
社長になる気は無し…と言うか、恐らくなりたくない人。

ポケモン生みの親として知られる田尻智から尊敬されており、初代ライバルの「シゲル」の名前はこの人から取られた。
田尻のみならず、ゲームの神として多くのクリエイターから尊敬されている。
その発想はゲームクリエイターとして以上にエンタメ的な思考であり、単なるゲームの面白さだけでなく発想面での輝きが目覚ましい。
品質優先でゲームを作り直させるちゃぶ台返しを度々行うので、一部からはダース・ヴェイダーパルパティーンの如く恐れられていることでも有名。
このちゃぶ台返しによって製作の根本から覆し、ゼロから作り直した結果ヒットしたのが『星のカービィ』『メトロイドプライム』など。
もちろんちゃぶ台返しがすべて大成功に繋がるとは限らず、ペーパーマリオ スーパーシールは全体的にシンプルな作品になるよう指示したことで(詳細は当該記事参照)賛否両論の内容になってしまった件は未だに話題に挙がる。

  • 岩田聡
4代目社長。
元々はHAL研究所の社長で、破綻寸前のHAL研を見事に立て直した。*22その実績が組長に認められて、「異業種に手を出すな」等の経営哲学を伝授されたうえで任天堂の社長に指名される。
WiiやDSを世に送り出し、革新的なライトスペックハードを以てプレイステーションに奪われていたシェアを奪還した立役者。また、ポケモンの海外展開の手伝いやポケモンスタジアムの核となる部分の開発、更には64用のマイクロコードを作成したり、グラフィックスチップの性能を向上させる方法を勉強をしに米国へ行ったりと任天堂に入る前から様々なところで活躍していた。
ただしあまり取り沙汰されないが、後半は3DSの無茶な値下げによる逆ザヤに苦しんだり、WiiUについてはやることなすこと裏目に出て最初期の好調を棒に振るなど判断を誤ったことも数しれず。
おかげで任天堂は大きめの赤字を計上して、株主にかなり詰られていたこともある。
社長就任後も、社長自ら新作ソフトなどのプレゼンをおこなうNintendo Direct、クリエイターへのインタビュー企画「社長が訊く」*23など今も続く新しい試みも始めた。

HAL研時代から上司の鑑と言うべきスタンスを取っており、同社再建時は一人一人と熱心に面接を行って職場の改善を行った。
ストレスを表に出す機会も少なく、こういった何事も抱え込む、一手に引き受けがちな性質が後の病に繋がったのではないかとする意見もある。

本業はプログラマー。代表作はゴルフ、MOTHER2、格闘ゲーム竜王改め大乱闘スマッシュブラザーズ。上記の通りポケモンシリーズでも開発協力を行っている。
バルーンファイトでは横井軍平の要望を受け、バルーントリップモードを3日で完成させたのは語り草。
プログラマーとしての技術は天才という言葉でも収まらない化け物じみたレベルの腕前で、「経営者にしておくのが勿体ない」とまで言われていた。
本人も「本当はプログラミングしたいが社長業そっちのけでプログラミングは出来ないから、社長を退任したらまたプログラムを打ちたい」と言っていたほど。残念ながらこれは叶わなかった*24
その人柄の良さだけではなく、お茶目さも兼ね備えている。
大乱闘スマッシュブラザーズfor3DS/WiiUのMii参戦PVでは任天堂アメリカ法人社長のレジーコングことレジナルド・フィサメィと激闘(物理)を繰り広げたり、Nintendo Directでの「直接」などネタ要素にも事欠かさなかった。
また、ラストストーリーのプレゼンではミストウォーカーの面々に内緒でサプライズ参戦し、「リハでも聞いてない」「来るなら来るって言ってください」とちょっと恨めしく言われたこともある。
ネット上では「いわっち」の愛称で親しまれた。

ただその人柄の良さの裏で相当な心労や我慢もあったと見られ、人のために身を粉にして、あまり休みなく働いた結果、大病を患って体調を崩していった感は否めない。
晩年は体調不良で大きな手術をするなど体調が優れない中、Nintendo Directに出演したり、NX(Nintendo Swichの開発コードネーム)の発表をしたりと精力的に活動していた。
しかし15年の7月に体調を崩してから容態が急変、2015年7月11日、胆管腫瘍により社長在職のまま55歳の若さで急逝。前任の山内の死去から2年後と、まるで彼の後を追うような形となった。
復帰を宣言して徐々に回復傾向にあると見られていた中の訃報は、日本のみならず世界中のファンに衝撃と悲しみを与えた。
元部下だった桜井政博は「考えうる限り最高のリーダーだった」とその人柄と才覚を惜しんだ。
その影響力の凄まじさはさらに多岐に渡り、ライバル企業であるSCE(プレステ陣営)からすら哀悼の声が上がったほどである。

死後も自身の関わった企画やゲームが進行しており、スタッフロールで名前が上げられたり、スーパーマリオブラザース・ザ・ムービーでもその名前が上げられているなど、今もなおその名前は語り継がれている。

  • 横井軍平
ウルトラハンド、ラブテスター、ゲーム&ウォッチ、ゲームボーイ、バーチャルボーイを作ったこれまた凄い人。今ではコントローラーのスタンダードなった「十字キー」を考案したのもこの方。
宮本と二人でドンキーコングやマリオブラザーズの開発を行っていたこともあり、宮本は横井のことを師匠だと語っている。
現在の任天堂は横井と宮本で作り上げたと言っても過言ではない。
当たり前の技術を別の分野で活かす「枯れた技術の水平思考」で有名。
1996年に任天堂を退社し、その後はワンダースワンを監修していた。この退社のタイミングがバーチャルボーイの売り上げ不振の時期と重なったためあらぬ噂が流れたが、実際は50代で退社し好きなことをすると決めていたのが理由。
ただ本人も後ろ髪を引かれる思いがなかったわけではなく、
インタビューで山内との思い出を語った中で「(離れるのは)寂しいでしょう」と問われるとしんみりしていたという。
しかしながら、退社から1年後の1997年、交通事故に遭い56歳で死去。

  • 上村雅之
組長の「低価格かつ数年間誰にも真似されない家庭用ゲーム機を作れ」という無茶振りに応えて、ファミコンを開発した人。
元々はシャープの人間だったが、組長に引き抜かれて任天堂に入社する。入社理由について後年のインタビューで任天堂には転勤が無いから移ったとハッキリ述べている。*25
そのためか、任天堂の功労者において、組長に対してあからさまに不満を述べることすらあった数少ない人物。*26
ファミコンに引き続き、スーパーファミコンの開発も主導していたが、64の開発責任者が竹田に移って以降はハード開発から離れることになった。
開発から離れた要因のひとつとして、自身が開発し事業部長としても統括していたサテラビューが思いのほか振るわない売り上げ結果になったことが影響しているのではないかと言われている。
2004年に任天堂を退社すると同時に開発アドバイザーに就任。また立命館大学の客員教授にも就いており、次世代の育成にも携わっていた。
ファミコン開発者として当時のエピソードを語るなど任天堂の生き字引となっていたが、2021年、78歳で逝去。

  • 竹田玄洋
ハードウェア開発の責任者を64の開発から2017年の代表取締役の退任時まで務めた人物。
1975年に任天堂が発売したアーケードゲーム『EVRレース』の開発にも携わっており、いわば任天堂最初期のゲームクリエイター。
ファミコン・スーパーファミコンの時代にはカセット内に内蔵する特殊チップの開発や、カートリッジにバッテリーバックアップシステムを組み込むシステムの開発などを行っていた。
岩田や宮本の影に隠れがちだが、ゲームキューブ以降のハードでゲームが開発しやすいハード設計を行ったり、Wiiリモコンやセンサーバーを宮本らと共に開発するなど、任天堂のハードウェア開発の礎を築いた重要な人物の一人である。
意外にもソフトウェア開発の経験もあり、アーケード版「パンチアウト!!」などの製作にも関わっていた。
2017年6月29日付けで代表取締役技術フェローを退任。以後は特別顧問として後任の育成に携わる。

  • 君島達己
5代目社長。
岩田亡き後の2015年9月に社長の座を引き継いだ*27山内組長に負けず劣らず強面。
先代の岩田とは異なり銀行出身*28で、株式会社ポケモンの社長や米国任天堂のCEOといった任天堂の関連会社の要職を渡り歩いてきた人物。
円高の影響やWii Uの不振などからきた赤字や岩田の急逝といった難しい時期での社長就任であったが、ブレスオブザワイルドをSwitchのローンチにしたりと工夫し、見事にSwitchを普及させ大きく業績を回復させた。
また、経営面では組織改革や権限移譲(執行役員制度の導入など)を行い岩田社長時代から進められていた集団経営体制への移行を促進した他、若手の積極登用によって組織の若返りを図った。

2018年6月28日付で古川俊太郎を後任として社長を退任し、相談役となった。
当初から急遽退任することとなった岩田から次の社長への中継ぎが目的であったため、先代と違いほとんど表舞台に出ることはなく、Switchの発表会で一度公で堂々と姿を晒した程度。
このため任期は短くそこまで知られていないが、重要な時期を見事に乗り切った功労者である*29
ちなみにこの方も組長にスカウトされた一人。

  • 古川俊太郎
6代目社長。
社長としては初のゲーム会社任天堂生え抜きだが、経理畑を歩いてきた他、10年の長きに渡って欧州統括会社に勤めていた。岩田社長を深く尊敬しており、一時期は秘書も務めていたこともある。
君島社長時代の方向性を継続させ、Switch普及を当面の目標としつつスマートデバイス事業などを育てて行く必要性を示している。
インテリ系に見えて、岩田と同様に噂などについてはキッパリ自分の名前を使って否定するなど、情報戦略もばっちり。
ファミコン世代の人物で歴史ゲームの『信長の野望』が好きなほか、今でも自社他社問わず様々なゲームを遊んでいるとのこと。なお当時は前述の信長の野望やファミスタ等のサードパーティー作品ばかりプレイし任天堂作品はあまりやっていなかったとのこと。

◆主なゲーム機

◇据え置き型


◇携帯機



◆主な作品



◆余談

世間的に白いイメージの任天堂だが、実際には狙っているとしか思えないほど黒いネタがゲームにスパイスのごとく散りばめられている。
小さい頃はよく解らなかったネタも、少し大きくなるとわかってくるものである。
詳しくは黒い任天堂にて。

財界本流や政治団体とは距離を取っており、そのせいで理不尽な絡まれ方をすることが多い。
環境保護団体「グリーンピース」から献金を要求されて断った結果、グリーンピース作成の「環境に優しい企業リスト」で最低点を付けられたり、
日本経済新聞で悪意ある飛ばし記事を書かれたり、朝日新聞に架空のインタビュー記事を書かれたりと、何かと災難の多い会社である。
こういった誤った情報の対抗策として、直接情報を届けるために始まったのがかの「Nintendo Direct」である。




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最終更新:2024年04月15日 03:40

*1 ラブホテル等のホテル業も行っていたと噂されているが出典が不確かで事実不明である。

*2 近年ではテーマパークや映画といったゲーム分野以外の事業にも進出しているが、そのどちらもNBCユニバーサル、イルミネーションなどその分野に特化した企業と組んだ上で進出しており、今現在でも異業種への進出へは慎重な姿勢をみせている。

*3 ニンテンドー3DSシリーズが最後の携帯ハードだったのだが、3DSは2020年9月16日に生産を終了してしまったので、Switch Liteが事実上の携帯ハードの最新機種となっている。

*4 もっとも、タイトーなど他社もコピーゲームを出していたので現在と当時の著作権に関する意識の違いに因るところが大きい事はお忘れなく。

*5 初期三作は自社開発

*6 こう言ったソフトは自社制作では無く、セカンドパーティ(関連会社)産の物が多い。

*7 ただしWiiの場合、ハードの初期はマルチを含め割とサードのソフトが発売されていた。しかし、ハード末期になると控えめな性能などが原因でマルチ対象外となる事が増えてしまい、サードのソフトが激減してしまった。

*8 アンバサダー・プログラムの項で詳しいが、3DSの普及速度が鈍ったのは元々携帯ゲーム機としては高めの価格設定だったこと、発売直後によりにもよって東日本大震災が発生したことも影響している。

*9 パソコンのグラフィックボードでPCゲームをやる人には定番のNvidia製の基板を採用したのが大きい。自社作品でも移植が楽になったとか。

*10 任天堂的には「覚醒」で最終作にする予定で、事前に開発元のインテリジェンドシステムズのスタッフにその旨を通告していたが、開発陣の努力で売上を回復した為、シリーズ継続に成功した。

*11 改革自体は前作のスカイウォードソードから進められていた。

*12 ただし、著作権を守るように動くことは、本来当たり前の事である。

*13 法人の場合は許諾が必要。

*14 大規模な大会については申請の必要あり。

*15 当時「ポケモンとタイアップさせて欲しい」という要請が殺到しており、任天堂の業務を本業以外で圧迫しすぎていたため、関連会社と協力して設立。それが現在の株式会社ポケモンである。

*16 所謂「ムービーゲー」の散乱以外にもゲーム脳バッシングなどの影響もある。

*17 山内曰く「ソフトが主でハードが従」、「ハードというのはどうしても遊びたい『ソフト』を遊ぶためにしかたなく買ってもらう箱なんだ」

*18 もっともSwitchの場合はロード時間の問題だけではなく、バッテリー駆動時の稼働時間を延ばすために、可動部位を極力減らす方針を採っている都合もある。

*19 現在は同じく任天堂のソフト開発を担っていた企画開発本部と統合され、企画制作本部となっている。

*20 2015年のフェロー職就任時は「クリエイティブフェロー」という役職名だったが、竹田が技術フェローから退いた際、役職名からクリエイティブが外れた。

*21 2023年発売のピクミン4のプロデューサーを務めていたりと、完全に開発現場から退いているわけではない模様。

*22 ちなみに山内の指名でHAL研究所の社長になったとよく言われているが、生前に山内も岩田もこの件について話していないので真相は不明。

*23 厳密には岩田が逝去した2015年7月に事実上の打ち切りになってしまったが、「開発者に訊きました」という後継企画が2021年から始まっている。

*24 このプログラミングをしたいという発言はゲームセンターCXで有野との会話の中でプログラミングの逸話が出た際に有野から「ゲーム作らないんですか?」と質問されたことに対する解答である。岩田の死去後に有野は「社長の作ったゲームをプレイしたかったです」と故人を偲んでいる。

*25 シャープ時代に海外拠点や国内の別事業所への転勤の話が舞い込み、ちょうど結婚したばかりのタイミングだったので異動が嫌だったとのこと

*26 山内組長に何を言っても聞いてもらえない、と諦めていたと語っている。

*27 ちなみに岩田の死後、任天堂社長の座は君島の就任まで約2か月間空席となったが、当時代表取締役だった宮本と竹田が職務を代行した。

*28 旧三和銀行(その後のUFJ銀行を経て、現在の三菱UFJ銀行)出身。三和銀行時代は本店広報部や海外勤務を経て、新橋支店長を務めていたとのこと。

*29 君島本人も社長在職中より組織の若返りの展望を語っていた。