ビートたけし

登録日: 2017/01/20 Fri 00:46:02
更新日:2024/01/18 Thu 22:07:09
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ビートたけしは日本の漫才師。タレント。
愛称はたけし。たけちゃん。殿。
1947年1月18日生まれ。O型。
東京都足立区島根出身。

1980年代の漫才ブームから台頭してピン芸人としてブレイク後、数々の冠番組や名を掲げた番組が制作され続けており、タモリ明石家さんまと共にお笑いBIG3の一人と称される。

本名の北野武名義では映画監督、俳優、その他の文化人や芸術家としての活動もしており、日本のマルチタレントの第一人者でもある。
特に映画監督としての手腕は国内以上に海外での評価が高くファンが多い。

最終学歴は明治大学工学部(現:理工学部)除籍であったが、04年に大学から特別卒業認定と共に、広く知名度を得るまでに至った活動を評価されて特別功労賞を受けている。

目次

【略歴】


~生誕~

浅草に生まれ、下町(足立区北千住)で育つ(本人談)。
塗装職人の父 菊次郎と、母 さきの四男(兄二人(重一、大)と姉一人(安子)、さらに早逝した兄が居る為、実質的には三男)として生まれる。

たけしの少年時代を描いたドラマ『菊次郎とさき』で描かれた通り、父親の菊次郎は塗装職人としての腕は確かだったものの、大酒飲みで暴れまわる男で、それを見かねた母親のさきは子供たちを貧乏生活から脱出させるために教育熱心であり、その甲斐もあってか、普段の自身への謙遜した言動や茶化した印象とは裏腹に成績はずうっと優秀だった。
小学校の頃より算数と図画工作が得意で、後の思考や活動のベースとなるものが窺える。

中学、高校は母親の希望を汲んで、わざわざ遠くの進学校まで進む。
小、中、高校を通じて野球部(軟式)に所属。高校時代にはジムでボクシングも習っていた。
こうした経験からか、野球やボクシングをはじめとしたスポーツが好きで、サッカーにも詳しい。
ただし、器械体操は苦手で克服企画も放送された。

就職に有利という母親の薦めで明治大学工学部を受験して現役合格するも大学生活に馴染めず、二年生の頃から家を飛び出して新宿界隈で根なし草の様な生活を送る。

尚、当時は学生運動真っ盛りで本人も強制的に巻き込まれたことを告白しているが、そうした思想には全く感化されず、音楽(ジャズ)や芸術方面に傾倒してゆく。
自らもジャズ喫茶でボーイとして働く一方、名曲喫茶等に入り浸り、その知識は一部で評判になっていたと云う。
映画監督の若松孝二、小水一男や映像作家の萩原朔美、小説家の中上健次等はこの頃の知り合い。
これが縁で、初期若松組作品に端役として出演している。

ジャズ喫茶のヴィレッジ・ヴァンガード*1でバイトをしていた時には、同僚として連続射殺事件の犯人である永山則夫がいた(永山は早番ボーイ、武は遅番ボーイだったので関わりはなかった)。
壁に残されていた「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」の詩が強く印象に残ったらしく、後に自らが「死に場所さがして生きるもよし」を加えて、これを元に詩と歌にしている(『犬の死』 作曲・泉谷しげる)。

この時期には、他にもタクシー運転手やガソリンスタンドの店員、東京国際空港の荷役作り等、短期ながら様々な業種のアルバイトを経験しており、これらの体験が後の自身の作品にも活かされている。

~浅草~

芸人を志したのは、自身も進むべき道を定めなくては、と思ってからであったらしい。
もともと芸能には興味もあったが「理工系の自分には文学的なものはわからないが、演芸なら理解できるだろう」と思った為であるらしい。
これについては当然のように母親に怒り嘆かれたが、幼少の砌より母親の勉強漬けの方針に鬱屈していた感情を抱いていた武は、逆に芸人の道に入ることを決意。
北野家では暫くの間芸人を目指した武の存在は無かったものとして扱われたと云う。

そうして、ストリップ劇場・浅草フランス座のエレベーターボーイとして働きながら経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、北千太の芸名を貰うと、前座芸人としてコントやタップダンスを学んだ。後に映画『座頭市』で披露された殺陣の基本もこの頃に覚えたもの。
後年師の深見が寝たばこで焼死した際も追悼の意を込め、真っ先にタップダンスを踊ったという。
タップダンスは現在でも練習を欠かさず、トレードマークの1つとなっている。
後に、漫才ブーム終焉後のお笑い番組がバラエティー化することを予測し、自身のみならず軍団にもタップダンスと音楽、ジャグリング芸等を必修科目としていた。

深見は自分に対しても物怖じしない武を買って、わざと靴を履き間違えるなど日常的に所構わず即興のボケを行い、それにツッコミをさせるというスパルタ(?)教育を行い、これが芸人としての“たけし”の芸風の基礎となった。
因みに、たけしが罵倒としてよく使う「馬鹿野郎」「この野郎」は深見譲りであるらしい。

元々は師の深見に倣いコントを志向していた武であったが、組むはずだった相方が体調を崩し芸能活動を続けられなくなったなど不遇に見舞われたのち、山形出身で2年先輩の兼子二郎に誘われ漫才コンビを組むことになる。
これが後の“ツービート”となったのだが、この行動により、ある時期まで深見に破門されることになる。
破門の理由は上記のほか、既にテレビでの活躍を希望していた*2たけしの姿勢を嫌っていたともされる。
と言っても深見が街でたけしと会うと「おいタケ!破門になった身でよく俺の前に顔を出せたな!…じゃあなんか食いにいくか?」と言ってくるような破門だったようだが。

正統派のツッコミ漫才としてスタートするも当初は認められず、酔客相手の営業を嫌ったたけしが舞台から逃亡したり……といった紆余曲折を経る中で、
大阪で頭角を現していた島田洋七と洋八のコンビ「B&B」のスタイルの影響を受けるようになる。
(なお、洋七とは漫才ブーム以前から親交があり、フライデー襲撃事件による謹慎中にも毎日のようにゴルフに行ったり、洋七が芸能界を辞めると言った時には「友達やめるぞ」と言って吉本興業に詫びを入れさせて引退を止めている)。
こうして、ハイテンションのしゃべくり漫才に、たけしの毒舌によるツッコミや、即興のノリを取り入れた破天荒なスタイルを構築。
同じく興業に出ている人間からすらも人気を集める程で、ツービートの漫才中には楽屋から人が居なくなる程だったというが、余りにも型破りなスタイルを危惧した漫才協会からは脱退を求める声すら挙がったと云う。

79年には女流漫才師をしていた幹子夫人と結婚している(後に離婚)。


~漫才ブーム~

そんな事情もあってか賞レースの類とは無縁であったが、80年代に入るとツービートら従来の枠から外れた若手漫才師達に世間の注目が集まり、空前の漫才ブームが起きる。
こうして、たけしは30代半ばを前にしてブレイクを果たし、現在までの地位の礎を築いてゆくことになる。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」等の、単なる毒舌に留まらないブラックユーモアは『毒ガス標語』と銘打たれ、この頃のたけしの代名詞となった。
同年6月にワニマガジン社から発売されたネタ本『わっ毒ガスだ!』は、「売上は低いだろう」とタカを括り、売り上げの全てを渡すことを契約していた事務所の予想に反して85万部を売り上げてしまい、ツービートは莫大な印税を得ることになった。
また、お笑い史に残る一発ギャグでもあるコマネチ!が生まれたのもこの頃。
実は、モデルとなった美貌のルーマニアの新体操選手で、妖精とまで讃えられたナディア・コマネチのレオタードの股のラインを模したジェスチャー芸で、共演していたせんだみつおとの楽屋での談笑から誕生したと云う。錦糸町界隈で外国人パブに来た客が何かとこれを披露することになったのはこのせい
後にベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した時には、ナディア・コマネチ本人から記念本『コマネチ!』に祝福の手紙が寄せられた。
2011年にはコマネチ本人と共演を果たし、両者揃ってコマネチ!をするという偉業?を成し遂げている。

~個人として~

漫才ブームは82年までに終息に向かっていったが、既に自分の活躍の場をテレビや『オールナイトニッポン』などのラジオに移していたたけしは、『オレたちひょうきん族』(81年~89年)で共演していた殆どの面々が世間から消えていく中でも変わらずに世間に露出し続け、強烈な毒舌や皮肉も独自の芸風として定着していた。
そして、世間への露出と共に現れた東国原英夫(そのまんま東)ら弟子志願者が相当数集まった事から、弟子ならぬ“ボーヤ”達のお笑いグループ“たけし軍団”を発足(由来は「石原軍団」)。
彼らを売り込むべく開始した日本テレビ系の『スーパージョッキー』(83年~99年)やTBS系の『[[痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(86年~89年)は大人気番組となり、内弟子的な扱いだった軍団もまた芸能界に確固たる地位を築いてゆくことになる。

出演者としても、以前から目をつけていた大橋巨泉によってTBS系のクイズ(+トークショー)番組「世界まるごとHOWマッチ」のレギュラー回答者に起用され、毒舌ばかりではなく知的な面にも注目が集まるようになる。
これにより、番組への出演や司会のみならず、ブレーンとしても日本テレビ系の『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(85年~96年)等で優れた企画・構成の腕を業界に示していく。
また1982年にはTBSのコメディドラマ『刑事ヨロシク』でドラマ初主演を果たし、一方1983年の大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』では英国のロックスターであるデヴィッド・ボウイや、YMOなどで活躍していたミュージシャンの坂本龍一と共演。
同じ年にはSPドラマで実在した猟奇殺人者・大久保清の役を演じるなど、少しづつ役者としても活動の場も広げていった。
そして、折からのブームとなっていたファミコンブームにも着目。自らゲームソフトの企画に乗り出し、世間に大きな衝撃を与えた。
ラジオ内で「ポートピア連続殺人事件」を遊んだ際には、犯人のキャラクターを見て「こいつが犯人だろw」と言いあてている。*3

……そんな中、86年に当時の愛人に対する講談社の写真週刊誌「フライデー」の記者による暴行を伴う強引な取材に端を発し、たけしは軍団10人を率いて講談社の事務所に乗り込むフライデー襲撃事件を起こす。
たけしと襲撃に参加した軍団は有罪判決を受け、半年間の芸能活動停止と、復帰後の右翼団体の抗議から、当時の所属であった太田プロダクションを辞め、自身の事務所であるオフィス北野を設立する事になった(右翼団体に指示を出していた暴力団幹部の下へ自ら出向き、事務所を辞めることを条件に手打ちにしたとされる)。
以上の経緯から事実上の円満退社となったため、太田プロ所属芸人とはその後も共演機会が非常に多い。

活動再開後、自分の調子を取り戻すべく簡単な算数のドリルに挑んだ時に感じた、こうした義務教育により築かれているであろう一般常識と、自身の持っていた常識との間に齟齬を感じたことが、後のフジテレビ系の番組である『平成教育委員会』(91年~97年。後に特番化)の企画の発案に繋がったと云う。
同番組では、数学好きの観点からの独自の理論や意見を述べていた他、共に進行役を務めたフリーアナウンサーの逸見政孝と深い親交を結んでいくキッカケになった。
逸見からガンの再発を聞かされた際には告別式まで酒を絶ち、葬儀では弔辞を読み上げる筈が哀しみの余りに出来ず、こちらもテレビ番組で深い親交があった俳優の山城新伍が代理を務めている。

~映画監督として~

89年には『その男、凶暴につき』で主演を務めるのみならず、監督デビューを果たす。
この映画にて、主演のビートたけし名義と、監督の北野武名義を使い分けて以降、自分のライフワークともなった映画制作や創作活動では北野武の名前を使用していくようになった。
次作『3-4X10月』(90年)では、前作で脚本を大幅に書き換えた(削った)ことに端を発して「意地を張った」野沢尚に脚本を断られた事から、自ら脚本を書くことになった。
脚本の書き方についても「数学の方程式」の様なもので、纏められるものは纏めてしまうのがコツだと語ったことがある。

94年に酒気を帯びて生死をさ迷う程の原付事故を起こした結果、退院後も暫くは顔面の半分が麻痺する程の大怪我を負った。
夢枕に前年に亡くなった親友の逸見政孝が立ったと語り、「まだ来るな」と言ってくれたんじゃないか、等との心境を後に語っている。
この事故でのリハビリの経験を機に絵画活動も始めている。金獅子賞を獲得すると共に映画監督としての名声を確固たるものとした『HANA-BI』(97年)ではこの絵画も印象的な使われ方をされている。

いい意味でのジンクスとして、武映画に起用された無名の役者は「売れる」と云うものがある。
起用した時点では無名だった豊川悦司や安藤政信、大杉漣、寺島進らが主演、端役も関係なしに売れっ子になった他、本来は役者ではない人物を起用してその才能を引き出すことにも成功している。
たけし軍団のメンバーであった柳ユーレイ(現・柳憂怜)に役者の才能を見出だし、映画方面での活動の場を作ったのも武の慧眼であった。

武の映画はジャン・ピエール・メルヴィルからの影響を考察される等、徹底的に無駄を嫌った演出やキタノブルーとして語られた画面効果に代表される、感覚に訴えかけるのを主題とした難しい映画が多い。自らも「究極的な映画とはたった10枚の絵画で構成されたものだと思う」と語っている。
所謂エンタメ的な視点からは理解し難い作品が多く、観客からは賛否両論となりやすいが、専門家からは総じて高く評価される傾向にある。

作品の傾向についてはマンネリを嫌ってか、時期毎に変化させている。
初期二作の余りの暴力描写を嫌悪した評論家・淀川長治も、暴力性を廃したことで武の演出方針に目が向いた『あの夏、いちばん静かな海。』では、そうした叙情的な感性を高く評価し、以前の認識を改めると、日本での北野武映画の最初の理解者、宣伝役となった。
武自身が尊敬する黒澤明も武の映画監督としての才能を高く買っていた。
また、こうした事情については、カンヌ映画祭での名声以前にはまともに取り合おうとしなかった日本のマスコミの芸人への偏見がうかがえる。

因みに、「アウトレイジ」など数多く暴力やヤクザをテーマにしているが、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と、ハッキリと明言している。
その為、コメディ的な視点を含む作品でもなければ、何れも悲劇的な結末を迎えるのが特徴である。
以前は北野武作品の音楽と云えば久石譲が定番であったが、音楽に注目が行き過ぎたことから依頼をやめてしまう等、映画全体で一つの作品として見ているともとれる傾向もある。

~大御所として~

押し掛け弟子であるたけし軍団もそうだが、気に入った芸人や役者を起用し続けることでも知られている。
件のフライデー襲撃事件では弟子を巻き込んだことを一部に批判されるも、たけし自身は軍団に対して、もし芸能界での道を閉ざされた場合には「土方でも何でもやってお前らの面倒は一生見るから」とも語っていたという。

相方のビートきよしとの漫才も趣味程度に継続しており、14年にはきよしをオフィス北野に迎えていた。

バス吊り下げアップダウンクイズなどその過激な番組内容に賛否も起きた日本テレビの正月特番枠の『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』も、元々の目的は売れない芸人をテレビに出してやることであり、
実際にダチョウ倶楽部やビートたけしなどの物まねが得意な松村邦洋が頭角を現すキッカケとなった。
アントニオ猪木の物真似で知られた春一番の酒癖の悪さと身体を危惧し、「酒をやめたら一生使ってやる」との旨を周囲の人間に伝えさせていたこと等も明かされている*4
たけし自身も下克上クイズで自ら身体を張ったリアクション芸を披露する等、お気に入りの番組であったと語っている。

自身にとっても最も息の長いレギュラー番組である『世界まる見え!テレビ特捜部』でコンビを組む所ジョージとはプライベートでも仲がよく、殆どの週末にたけしから遊びに行く程の仲である。
「テレビ以外のすべての楽しみは所から教わった」と語り、そのライフスタイルへの憧憬や嫉妬を口にしている。

直接ツッコミを入れるのには憚れるような大御所が頓珍漢な受け答えをした時などに代わりに所や軍団や芸人の頭をピコピコハンマーで叩く、というネタもたけしが『まる見え!』で発明して、以降の業界にも伝播したネタである。
ちなみにこのネタ自体は、『戦場のメリークリスマス』に主演した際に、監督の大島渚がたけしが芸人で本職の役者ではない*5からと云う理由で、代わりにスタッフに怒鳴っていた所を参考にしたらしい。*6


同期にはザ・ドリフターズの志村けん笑福亭鶴瓶が居るが、たけしは二人より年上である。
志村とはお互いの番組のスタジオに遊びに行くなど楽屋での交流が多かった一方、表舞台での接点が長らくなかったが、ある番組でのドッキリ企画が元で意気投合し、大御所二人による冠番組『神出鬼没!タケシムケン』(99年~00年)が制作された。
スタッフと自分たちとの意志疎通がうまくいかなかった、として短命番組に終わったことを悔やむ発言をしているが、意欲的な取り組みや歌手の氷川きよしのデビューを評価する声もある。

また、嘗ては異端扱いだったたけしだが、近年では『M-1グランプリ』や『THE MANZAI』や『北野演芸館』等の場に於て、自分を育てた漫才や演芸文化への深い造詣により、若手の芸風を分析、解説している場面も増えた。
過激な言動とは裏腹に、嘗ては噛みついていたと捉えられていた萩本欽一らに対するリスペクトが語られる等、自身の活動の原点が単に自分によるのものだけではないと、自身をも含めて論理的に系統づけている視点が窺える。

現在はオフィス北野を離れ、自身が新たに設立したT.Nゴンに所属している。

【余談】

  • たけしの物真似として「コマネチ!」「馬鹿野郎」等とセットで定番化している首を傾けてひねる仕草は癖ではなく、
    トランポリンで跳ねながら漫才をやってくれと依頼されて稽古中に落ちて首を傷め、長らく違和感が残っていた為。
    実際、違和感がなくなった90年頃からはたけし本人は首をひねる仕草を殆どしていない。
  • 戸籍上の子供は4人居るが、上2人(長男と長女。長女の北野井子(しょうこ)は一時期芸能活動をしていた。)は正妻の幹子との子。
    次女は認知した愛人の子。三女は離婚した長女・井子の子(たけし本人から見れば孫)を養子縁組した子である。
  • 政治的なネタをしたり、番組でも取り扱っているために政治的な発言を求められるが、たけし本人は右とも左とも言えない。
    ただし、天皇家への尊敬の念などから、どちらかと云えば佐高信など左寄りの人から政治的な意見に係わらず、批判されやすい傾向にある。
  • 遂に70代に入った現在でも被り物や扮装が大好きで、特に『世界まる見え!』では幾つかの候補から吟味して扮装を選ぶ。
    スタジオに水が登場した時の暴れっぷりも名物である。本人曰く照れ隠しの事。
    余談だが、『世界まる見え!』では「海外のたけし映画ファンに番組内での暴れっぷりを紹介する」という企画が行われた事があり、映画監督としてのたけししか知らなかったファンをどん引きさせていた。
  • たけし軍団に色々個性的過ぎる芸名をつけているが、本人としては「これくらいでダウンしてたら芸人なんて務まらない」という師匠なりの愛らしい。
  • また、軍団の中に「親子で世間を騒がせ、その時のたけしの態度に感銘を受けた親によって軍団へ入れられ芸能界入りした」なべやかんがいるため、「不祥事タレントは軍団入りさせれば」なんてジョークがあったりする。
  • 自らの過去を基に『たけしくん、ハイ!』・『菊次郎とさき』(少年時代がモデル)、『浅草キッド』(修業時代がモデル)と小説を書いており、いずれも映像化されている。後者は2021年にたけしのモノマネを持ちネタとする劇団ひとりが監督し、深見役に大泉洋・たけし役に柳楽優弥という豪華な顔ぶれでNetflixで映画化された。
  • 人間は持っている運の量が決まっていて、それをどこで使うかで成功が決まるという独特の考えを持っている。
  • フライデー襲撃事件は、奇しくも翌日にあのたけしの挑戦状の発売を控えてのことだった。ゲームは予定通り発売されたがCMの放送が自粛された。発売後、攻略本を出版した太田出版に苦情が殺到したことを受け、「これで解けないからといって、くれぐれも傘と消火器を持って太田出版に殴りこまないように」という自虐ネタにした。


追記修正はコマネチ!を決めてからお願い致します。

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最終更新:2024年01月18日 22:07

*1 「遊べる本屋」のキャッチコピーで知られるチェーン店とは全く別物。ただしどちらも、ニューヨークにあるジャズ喫茶のヴィレッジ・ヴァンガードにあやかった命名。

*2 深見はテレビに出演すると芸の幅が狭くなることを危惧していたほか、自身も戦時中に左手の指をすべて失う事故を起こしていたため、テレビへの出演をしていなかった。

*3 ※たけしとしては冗談のつもりだったのだろうが、まさかの正解。ベタな予測といえば予測なのだが……。このたけしの発言が微妙に曲解されて広まったのが「犯人はヤス」なのである。

*4 しかし、そこまで言われても春は酒を飲むことを辞められず、2014年7月3日の朝に寝たまま冷たくなり、肝硬変で47歳の若さでこの世を去った。隣で寝ていた夫人が慌てて病院に担ぎ込んだが、すでに手遅れだったという。

*5 =から、たけしをサポートできてないお前達が悪い

*6 そのため、ピコピコハンマーも「お前芸人だろ、なんとかしてやれよ」の意図でやっているそうな。