ヴィクトリア女王

登録日:2016/10/05 (水) 11:04:00
更新日:2023/12/10 Sun 01:11:59
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ヴィクトリア女王とは、19世紀イギリスを治めていた君主のことである。彼女の統治した時代は、後に「ヴィクトリア朝時代」と称されるほど英国が栄えた時代だった。


◆基本情報
  • 全名:アレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria)
  • 生没年:1819年5月24日~1901年1月22日(享年81歳)
  • 即位年:1837年6月20日(戴冠1838年6月28日)
  • 伴侶:アルバート・フランシス・オーガスタス・チャールズ・エマニエル
  • 王朝・家名:ハノーヴァー朝


◆女王出生前の時代背景

話は彼女の祖父ジョージ3世の時代まで遡る。
ハノーヴァー朝は前王朝「ステュアート朝」の直系が絶えたことを受け、血縁者のうち非カトリックであった神聖ローマ帝国諸侯の一人「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(通称「ハノーファー選帝侯」 後にナポレオン戦争を経てハノーファー王となる)」が赴任して誕生した王家であった。
そのため、初代・2代目が「神聖ローマ帝国諸侯」面が強かったが、それに対しヴィクトリアの祖父ジョージ3世は「英国王」として奮闘、議会には強権的だったが精力的に活躍した。
しかし晩年になると、彼の息子たちのだらしなさ子供の不足が痛い問題になってきた。
まず後継者のジョージ4世は社交的なの「だけ」が取り柄の重度の遊び人で嫁とも不仲、唯一生まれた娘も結婚後赤子と共に死去(ちなみに夫は後のベルギー王レオポルド1世)。
兄4世の跡を継いだ弟ウィリアム4世も「内縁」関係の女性との間に10人の子をもうけるもその子達に継承権は与えられず、
女性と別れ正妻を娶るも生まれた2子はすぐ他界。
かくて彼らの弟「ケント公エドワード・オーガスタス」はそれまで付き合っていたフランス人女性と別れ、
何と51歳で、レオポルド1世の姉で2児の子持ち未亡人な「マリー・ルイーゼ・ヴィクトリア」(32歳)と結婚。
すぐに子供を授かり、出産時「英国王継承権持ちはロンドンで生まれるべし」という慣習を守るため、
ケント公夫婦は当時棲んでいたコーブルクからロンドンへと帰還(この時彼は「子は王になる」と予言されていたともいう)」。
こうして生まれたのが、後のヴィクトリア女王である。


◆女王即位まで
生まれてすぐの「洗礼式」で、伯父で当時摂政だったジョージ4世により「洗礼式に同席したロシア皇帝アレクサンドル1世」から「アレクサンドリナ」と命名。
しかし、いきなり(仲も良くなかった)兄にこの名前を命名された父ケント公にはあんまりな話で、せめてそれならと妻と同じ「ヴィクトリア」とも名づけ
*1、この父の意を汲んでか彼女は即位後「ヴィクトリア」とのみ名乗っている。
生後8か月で父が他界するという不幸に見舞われるものの、「ただ一人の健康な若き王族」となったヴィクトリアは伯父ウィリアム4世らの期待を受けすくすくと育ち、叔父レオポルドを尊敬する様になった。

だがそれと同時に「次期女王の母」となった母ヴィクトリアが増長し始め、その振る舞いにウィリアム4世が「姪が一人で王になれる成人時まで生きないと母親がのさばりかねん」と決意したとか。
なお「ハノーヴァー朝」の系統や母と叔父の出身がドイツ語圏な事から、ヴィクトリアは英語を覚える前にドイツ語ネイティブとなるように教育され、最終的には英独仏のトライリンガルになったという。


◆女王即位
成人したての18歳で伯父が他界し、ヴィクトリアは正式に女王として即位。出しゃばりかねん母の影響なく王になれたヴィクトリアは、叔父の薦めた政治顧問や付き合いの長い家庭教師に支えられ統治を開始した。
……もっとも彼女が即位したため、ハノーヴァー朝はハノーファー家の12世紀以来の本領である「ハノーファー王国」を手放さざるを得なくなったが。
というのも、ハノーファー王位はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯時代から男系長子相続制(≒女子に継承権は無い)。
対する当時のイギリス王位は男系優先長子相続制(男子優先だが女子も継承権を持つ)だったからなのだ*2
なおハノーファー王位は女王の父方の叔父のエルンスト・アウグストが継承するが、彼の息子の代でハノーファー王国は普墺戦争によりプロイセン王国へ併合された)。

即位後、当時の英国首相であり彼女に即位を上奏に来たメルバーン子爵を強く信頼・寵愛する様になり、即位翌年に彼が職を辞した後、後任のピール准男爵とそりが合わなかったため彼を復帰させた。
もっともその理由が「女王付女官の顔ぶれを子爵のいる「ホイッグ党」人脈から、ピールが自分のいる「保守党」人脈へと変更しようとして喧嘩になった」という大人げないものだったため、各所から「政権に王が干渉するな」と批判され、「寝室女官事件」と呼ばれるようになった。


◆結婚
1840年2月、彼女は母・ヴィクトリアの生家であるドイツ地方の「ザクセン=コーブルク=ゴータ」家から、
「フランシス・アルバート・オーガスタス・チャールズ・エマニエル*3」を引き合わされ結婚。
結婚後アルバートは、メルバーン子爵引退後復帰したピール准男爵と女王との関係改善など政治面などでの調整能力を発揮。
私生活でも夫婦仲は円満で、4男5女と子供にも恵まれ*4、その様子は国民から理想的なものとして敬愛された。
「さすがにドイツ系王家だからってドイツ人の夫はどうよ?」という感情と、北ドイツ人らしく無駄遣いをやめさせたことで「金に細かい」とアルバートの人気は低かったようだ。
だが、1851年ロンドン万博の開催に携わり成功させたことで人気も上がっていき、1857年には「女王の夫」として2021年3月時点でも唯一、「Prince Consort(日本語訳:王配殿下)」の称号を贈られている。
1850年代には「アヘン戦争」の成功による中国への強いイニシアティブ、インドの完全植民地化、後の南アフリカらアフリカ植民地の拡大など「帝国主義」政策が次々成功していき、
鎖国していた日本との外交も開始、まあ他国にとってはかなり迷惑な話だったろうが、「 大英帝国 」と後に称されるほどに勢力圏を広げていった。


◆アルバートの死
ところが順風満帆に見えた1861年、学校でポカばかりやらかす長男アルバート・エドワード(後のエドワード7世、愛称はバーティ)をアルバートが説教しに行くが、それから元々良くなかった彼の体調がさらに悪化。最終的には病に倒れ、医師の誤診で処置が遅れた事が祟り、12月にアルバートは病死。
そのショックはヴィクトリアを完膚なきまでに打ちのめし、ロンドンから離れ各所で半ば隠遁状態の様に暮らしだした。
また夫の死とエドワードの不品行に因果を見出したせいか、息子を信用しなくなり、彼女は死ぬまで、長男を「国内政治」に一切関わらせなかった(晩年には外交大使代わりとして扱ったが)。
暗いムードが1、2年ならまだ理解はできたものの、その後約7、8年間女王はずっと夫を弔い続け政治に身が入らなくなり、「何で王家があるんだ」という批判まで出るようになった。
その悲しみを慰めたのは、夫の死後彼女に仕えるようになった夫の使用人ジョン・ブラウン。彼は女王にとても気に入られ終生彼女に付き従った。
だが、その「ブラウンラブ」な面も女王の身内や世間に批判されてしまった。一応この時期も政治・外交的な事はきっちりしていたが、それでも微妙な様子だったのだろう。


◆立ち直る
夫の死を引きずっていた女王に、2つの転機が訪れた。
1つは1871年、エドワードが夫と同じ病に倒れるも何とか回復したこと。これを契機に息子に対する厳しい態度も少し和らぐようになり、また同情から国民の批判も収まっていき、再び女王は人前に多く出るようになった。
2つは1868年に首相となった保守党のディズレーリ。現在以上に嫌われがちだったユダヤ系ながら出世し、女王の悲しみも慰めた彼はヴィクトリアに寵愛され伯爵まで上り詰め、彼が進めた帝国主義政策の下、ヴィクトリア女王は「インド女帝」の称号をも手に入れたのだ。
……もっともディズレーリのライバルで、結果的に彼より長い通算首相在籍期間を誇った自由党のグラッドストン(自由主義政策)のことは異常に嫌い、彼が死んでもあまり悲しまなかったという。


◆晩年
ヴィクトリアの子供達は各ヨーロッパ王家と次々縁を結んでいき、晩年には王の殆どが英国血縁者になった。
このことからアリエノール・ダキテーヌ、マリア・テレジア(欧州の曾祖母とも)に続いて「欧州の祖母」と呼ばれるようになっていた。

……そして。「大英帝国」は繁栄を謳歌したが、少しづつ綻びも見せ始めていた。
そんな中の1901年、セカンドハウスにしていたワイト島の「オズボーン・ハウス」で逝去。81歳であった。
その統治は実に「63年7か月」と、後にエリザベス2世(彼女の玄孫)が更新するまで歴代最長在位期間を誇り、
後半生において引きこもり気味だったりしたせいか「王権」の力は大きく下がったものの、議会の力は上昇。
その名は「ヴィクトリア朝」、「ヴィクトリア時代」と共に生き続けるだろう。


◆創作において
  • 『黒執事』
作中の英国の暗部を取り仕切る「悪の貴族」たるファントムハイヴ家に様々な命を下す。彼女からの連絡がエピソードの発端となることもよくある。シエルのことは「坊や」と呼んでいる。
作中では既にアルバート公を亡くしているが夫への愛は変わらず、彼を少し思い出すだけで公衆の面前にもかかわらず咽び泣き従者ジョン・ブラウンに宥められるというちょっと困った癖も。


◆余談
当時発明されたばかりの写真をこよなく愛し、歴史上はじめてフィルムに姿を残した英国王となった。後半生ぽっちゃり体形だったことも歴史に残ってしまったが……。

「寝室女官事件」等では短気、かつ直情的な性格を露わにしている。またマルチリンガルではあっても文系知識は並、技術・科学的知識はポンコツだったらしい。

長男エドワードにきつく当たった理由の一つとして、両親ともに「自分の家系は女性絡みで駄目な男が多い」認識があったせいらしい*5
しかしその教育も虚しくエドワードはナンパ師になってしまった。大叔父達と違って正妻との子作りはきっちりしたものの、嫁公認(?)の愛人が複数いたという。
また、エドワードの代から王家の名はアルバートの実家の英語読み「サクス=コバーグ=ゴータ」となったが、女王の孫の代でWW1が勃発し、ドイツ帝国ら同盟国と戦争になったため、
当時の国民感情への配慮などもあって、現在では持ち城からとった「ウィンザー」に改名されている。

いとこの一人は、かの悪名高いレオポルド2世である。

世界地図を見ると、ケニアとタンザニアの国境がキリマンジャロ付近で歪になっている。これは当時、ケニアがイギリス、タンザニアがドイツの植民地で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が「アフリカ最高峰が欲しい」と祖母であるヴィクトリア女王にねだったため。お年玉じゃないんだからさあ……。

実はヴィクトリアの遺伝子の中には、突然変異からか(女性発症率が極端に低い)血友病因子が(現在は絶えているが)含まれていた。このため、後に彼女の4男・ロシア帝室(次女の四女経由)・スペイン王家(五女の次女経由)と、その血を引いた者の多くがこの病に苦しんだという。特にロシア帝室は……。

ヴィクトリア&アルバート博物館などをはじめ、彼女の名を冠したものごとや地名は多数ある。




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最終更新:2023年12月10日 01:11

*1 「エリザベス」や「ジョージアナ」案もあったが却下されたとか。

*2 2015年3月26日からは絶対的長子相続制となり、それ以降出生した子女の王位継承順位は性別によっては前後しなくなった。

*3 ヴィクトリア女王のいとこにあたり、ドイツ語名は「フランツ・アルブレヒト・アウグスト・カール・エマヌエル」。

*4 長女にも「ヴィクトリア」と命名し、次男のアルフレッドは夫の生家が治める「ザクセン=コーブルク=ゴータ公国」を継いだ。

*5 ハノーヴァー朝初代国王のジョージ1世は嫁を幽閉したまま英国王になり、ジョージ2世・ジョージ4世も愛人持ち、彼女の父とウィリアム4世は正式に結婚できない立場の女性との交際のせいで晩婚になるなど。