アナタハンの女王事件

登録日:2016/08/29 (月) 22:34:59
更新日:2024/02/23 Fri 18:55:31
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アナタハンの女王事件』とは、1945年から1950年にかけて、太平洋マリアナ諸島に位置する孤島・アナタハン島で発生した事件。
殺人事件も起きているのだが、絶海の孤島で発生したこともあり、今なお謎が残っている。
32人の男性と一人の女性が極限状態で共同生活を行ったことで、32人の男たちはただ一人の女性を巡って争いを始め、
最終的には殺し合いにまで発展し、生き残ったのは20人ほどであった。
別名「アナタハン事件」・「アナタハン島事件」で、小説・映画「東京島」のモデルと言われる。


運命の島・アナタハンへ


島唯一の女性にして、事件発覚後『アナタハンの女王』と呼ばれた比嘉和子(1922~1972年)は沖縄生まれ。当時の本名は富里和子。

1939年、まだ16歳だった和子は、南洋にいた兄を頼ってサイパンへ渡って、しばらくそこで暮らした後、マリアナ群島のパガン島に移り、カフェで女給をしていた。
その島で南洋興産が経営するコプラ栽培園の労務監督をしていた沖縄出身の比嘉正一氏(当時25歳)と出会う。
2人は結婚し、1944年に比嘉正一氏の転勤の都合でサイパン北方のアナタハン島に移った(当時は栄転である)。

アナタハン島は、サイパン北方の約117キロに位置する火山島で、最高点は海抜788メートルで周囲わずか30キロ程の小さな島である。
島の中央に楕円形の火山があり、平地はほとんど無く、海岸は断崖絶壁。島一面はすさまじい熱帯ジャングルで、元気な者でも一周するのに3日間もかかる。

アナタハン島には、同郷で同会社所長の比嘉菊一郎氏が家族で既に住んでおり、この上司についてヤシ林の経営をする事になったのだが、
日米の激戦地は太平洋の島々に移り、菊一郎氏の妻と子供達はサイパン島に疎開するため、同年6月11日に船でアナタハン島を発った。
また、同じく正一氏はパガン島に残してきた妹を迎えに行くために島を出ていったが、
時を同じくしてサイパン島の攻撃が開始され、彼の消息はそれきり途絶えてしまった。

残されたアナタハン島の人口はわずか47名。比嘉菊一郎氏と和子の他には原住民であるカナカ人が45人のみだった。
正一氏が島を出ていってから、和子は菊一郎氏と主に行動を共にする事になり、やがて二人は事実上の夫婦生活を送り始めた。

2日後、同島は初めて米軍のすさまじい空襲を受けた。
家や建物はすべて破壊され、残された和子と菊一郎氏は命からがらジャングルへと逃げ込んだ。
また、空襲の時に同島の近くを日本からの食糧補給船団が航行しており、これも米軍機に攻撃されて沈没したのだった。


一匹の女王蜂


沈没した食糧補給船団から、日本人と見られる31人の男がアナタハン島に泳ぎ付いた。
彼らは陸海軍の軍人・軍属で、最初は乗っていた船毎に別れて生活を始めたが、やがて全員で共同生活を送ることとなり、
先に島で暮らしていた和子と菊一郎とも打ち解けた。

しかし、一気に31人も、それも成人男性が増えたことで、島の食糧事情は一気に深刻となった。
島では南洋興産などでニワトリ20羽、ブタ40頭を飼っていたが、わずか三ヶ月で全員の胃袋に収まってしまっている。
幸い、最も重要な飲料水は漂着したアメリカ製のドラム缶に雨水を貯める事で確保に成功したが、
食糧に関しては、パパイヤやバナナなどの島に自生していた果物の他、ヤシガニやタロイモも食べ、
夜寝ていると足などを噛まれるほど多く生息していたネズミやコウモリ、
皮を剥いで焼くと大変珍味とわかった、長さ2メートル、胴回り30センチという大トカゲも狩猟するなど、
毎日毎日、食って生き残るための戦争がくり広げられた。

そんな極限生活を送る彼らに、カナカ族はヤシの樹液から強い酒を醸造する方法を教えた。
これは〝トバ酒〟と呼ばれている物で、このアルコールで飢えや将来への不安を一時的に忘れる事ができた。
が、カナカ族はやがて戦火を免れるために島外に脱出し、島には日本人だけが残されることとなった。

そして、長く共同生活を送るにつれて、和子と菊一郎は同じ姓を名乗り、夫婦のように生活していたものの、
正式な夫婦ではないということが徐々に31人の男たちにも周知され始めた。他ならぬ和子がその事を吹聴したからである。
〝トバ酒〟で酔っぱらい、蚊やハエに悩まされる長い夜を過ごす中、31人の男たちは、
「正式の夫婦でないなら、オレにも和子を手に入れる権利があるはずだ」と次々と思い始め、彼らが和子を見る目も変わってきた。

また、当時は満足な衣服など望むべくもなかったため、男たちは細紐で前を覆っているだけの、衣服とも呼べないものを身に着けており、
それは和子も同様で、下半身には腰の周りにしめ飾りの如く木の皮で腰ミノを付けていたが、上半身には何もつけず、乳房は丸出しであった。
共同生活を送る中、嫌でも視界に入る和子の豊満な肉体と刺激的な服装は、男たちの欲望を搔き立てていた。

男達の視線が不安になった和子は菊一郎氏に結婚してくれと頼み込み、正式に一緒になった。
しかし、菊一郎氏は小心な男で、いい寄ってくる男達を撃退できず見て見ぬふりをした。

和子自身も〝男好き〟のする天衣無縫な可愛い女性で、母性本能の強いタイプであった。
男の求めにも応じ、自らも誘った。これがいっそう男達の闘争心に油を注いだ。


終戦


1945年8月、とうとう戦争は終わった。
しかし、孤島であるアナタハン島にいる彼らには、その事を知る術はなかった。

米軍は終戦(日本の敗戦)を知らせるビラを撒くなどして島の日本人に降伏を呼びかけたが誰も信用せず、
やがて、戦後処理などに集中せざるを得なくなった米軍はアナタハン島のことを後回しとし、
島は戦時中同様の無法地帯となり、和子を巡る争いも激化すると思われた。

この状況を危険視した最年長でかつて船長だったMは、和子と菊一郎が正式に夫婦になったと他の男たちに宣言して結婚式を挙げさせ、
彼らを自分たちから離れた場所で住まわせることで、和子を巡る一触即発の状態を回避しようと考えた。
が、とあるものの発見が、後の惨劇の引き金を引いてしまう事となった。


1946年8月、島の山中でB29の残骸が発見された。
その近くからは4丁の拳銃と70発の銃弾が発見されたが、壊れていてそのままでは使い物にならなかった。
そこで2人の男がそれを組み立て直し、2丁の拳銃へと完成させた。
拳銃は作り上げたその男達(AとB)の物となったが、原始人同然の暮らしを送るアナタハンにおいて、
簡単に人を殺せる拳銃はまさしく絶対的な『力』の象徴となり、それを持つAとBは別格の存在となった。

それは菊一郎と共に、男たちから離れて暮らしていた和子も無関係ではなかった。
AとBは拳銃を使って和子を脅して彼女を抱くようになり、それを菊一郎は止めることができなかったため、
当初夫婦となった和子と菊一郎が暮らしていた小屋にやがてAとBも住むようになり、
和子は半ば強制的に、三人の夫と共同生活を送る羽目となった。


その八ヶ月後、Aは和子を巡って喧嘩したCを拳銃で撃ち殺した。
AとCは元々、食べ物や和子を巡って些細な口論や喧嘩が絶えなかったが、
Aが拳銃を手に入れたことによって、ついにそれが最初の殺人事件を引き起こしてしまった。

さらに殺人は続き、今度はBがAを射殺する事件が起こった。
元々彼らは仲が良く、拳銃を二人が持っていたのもそのためであったが、仲間割れを起こし、
酔った勢いでAがBに「二、三日のうちにオマエをぶっ殺してやる!」と脅したことで、
その発言を真に受けたBが、殺される前にAを殺そうと思い至ってしまったのである。

その後、Bが菊一郎に思いつめた表情で切り出した。
「一生のお願いです。和子さんを私にください。この人がいないと私は生きていけない」

菊一郎はそれを受けて和子に気持ちを確かめた。
「私も好きです。それに、もしあなたが承知しないとあなたも殺されるだろうし、私も・・・」

菊一郎はBの申し入れを受け入れ、和子をBに譲ることを決めた。
…尤も、BはAを殺し、その拳銃を奪ったことで、島においては絶対的な支配者となっており、
菊一郎の判断にBが独占する拳銃と彼に逆らって射殺されることへの恐れが影響を与えたのは言うまでもなく、
和子もまた、Bに逆らうことは事実上不可能であっただろう。

そして、和子はBと別の小屋で一緒に住んだ。南洋の灼熱の太陽の下で、生と性の奔放な生活が続いた。

それから三ヶ月後、菊一郎が復讐に出た。新婚の小屋を菊一郎が訪ねた時、拳銃は小屋の壁にかけたまま放ってあった。
Bと和子は海岸で釣りをしていたが、この拳銃を使って菊一郎はBを撃ち殺し、死体を海へ捨てた。
菊一郎と和子は再びヨリを戻し、二人は口裏を合わせ「Bは釣りをしていて海で溺れ死んだ」と告げたが、
状況的にそれを信じる者はいなかったことだろう。

その後、拳銃は菊一郎とCという男が管理することとなり、和子と共同生活を送るようになった。
この頃から、拳銃は絶対的な力の象徴であると共に、「手にした者が和子も手に入れる」という共通認識が出来つつあった。

一ヶ月後、菊一郎が台風で壊れた小屋の屋根を直していた時、Cが下から拳銃で射殺した。
「菊一郎はバナナを食い過ぎて死んだ」とCはいい、和子も「悶え死んだ」と説明したが、最早誰も信じなかった。
そして和子は、拳銃を持つCと夫婦生活を送るようになった。

この頃には、食糧の確保も軌道に乗り始め、収穫、あるいは狩猟した食物を仲間と交換するほど、男たちには余裕が出てきた。
しかし島が絶海の孤島であることは変わらず、彼らの気晴らしと言えば、仲間たちとのおしゃべりであった。
話題が尽きると、やがて男たちは和子と彼女を巡る一連の事件を話すようになった。

菊一郎の死後、Cは一年以上和子と暮らしていたが、1949年11月に別の男に刺殺された。
しかしその男は拳銃を手にせず、拳銃は二丁とも和子の手に委ねられていた。
そのおかげで新たな殺人は起きていなかったが、いつまた殺し合いが起こるか予断を許さない状況であった。

そこでMは、これ以上の仲間内での殺し合いを避けるべく、全員を呼び集めて会合を開いた。
この話し合いで、争いと殺人を呼ぶ拳銃は二丁とも海に捨てることと共に、
和子に一人夫を選ばせて結婚式を挙げさせ、他の男たちと離れて暮らすことが決まった。

これで誰もが惨劇は終わったと思ったが、結局和子を巡る争いは終わらなかった。


逃亡と帰国


拳銃を捨てても、和子に夫を決めさせても、結局島内で争いが無くなることはなかった。
やがて男たちは、争いの元凶は和子であると断定し、和子を処刑することで事態を収拾させようと考えた。

しかし、確かに和子を巡って殺し合いが起こったとはいえ、彼女自身が悪いわけではない。
理不尽に殺されようとする和子を不憫に思ってか、一人の男が処刑前日に和子に危険を知らせ、
恐怖した和子は住んでいた場所を飛び出し、ジャングルの中を逃げ歩いた。

そして33日後、和子は沖に米軍サイパン島司令のジョンソン少佐の捜索船を見付け、
ヤシの木にのぼってパラシュートの布を振って、救助されたのだった。
その後、サイパンで1ヶ月、グアムで8日間過ごし、ようやく飛行機で日本に戻る事ができた。


残った男達

一方、残った男たちは未だに敗戦を信じられず、島から出なかった。

和子の証言によって彼らの氏名などが明らかになると、その家族からの手紙や新聞が島へ届けられた。
それでもこれを米軍の謀略と見る人が多かった。
全員が集まって「日本が負けたなどという事を信用してはならない」と話し合われている。

1951年6月9日、ある下士官が単独で投降した。彼は届けられた手紙の封筒が妻の手作りのものであると確信していた。
この男性のスピーカーによる説得活動の結果、6月26日、ついに全員が降伏した。
米国船「ココバ号」に乗りこんだ男達はグアムの米軍基地経由で、7月26日に羽田に降り立った。機内から富士山が見えた時、全員が泣いたという。


戦後のブーム


和子は郷里の沖縄に帰ったが、時の流れは残酷なもので、死んだとばかり思っていた和子の最初の夫だった比嘉正一氏は生きて帰国しており、
別の女性と再婚し、2人の子の父親となっていた。
他のアナタハン生還者の男性の場合にも同様の事があった。

帰還後、男たちはそれぞれで事情を聞かれ、帰還できなかった者たちの顛末も聞かれたが、
口を揃えて「事故死」と言う割には内容に食い違いがあることが疑問視され、やがては島で起きた殺人について話さざるを得なくなった。

こうしてアナタハン島で起きた事件の詳細が明らかになると、ニュースは全世界に報道され、
自分を巡って争われ、殺人者に妻にされた和子は、悲劇のヒロインとして一躍有名になった。
「アナタハン」はブームとなり、「アナタハンの女王」「女王蜂」「本能という名の島アナタハン」として話題は沸騰したが、
あたかも和子が自身の肉体で男たちを手玉に取り、殺し合わせたように面白おかしく書き立てるマスコミなども多く、
中には「生きるために仕方がなかった」と同情的な物もあったが、大半は和子を誹謗中傷するようなものであった。

そもそも『アナタハンの女王』と揶揄されるが、実際に『王』として振る舞っていたのは銃を手にした男たちであり、
和子もまた、『王』となった男に支配され、その欲望に晒されていた。これが『女王』と呼べる立場だろうか?
彼女が『アナタハンの女王』だの『女王蜂』だの、あたかも男たちを欲望で支配し、殺し合わせた元凶のように語られるのは、
上述のように、大衆受けするように面白おかしく書き立てた当時のメディアの影響もあることも、念頭に置いておきたい。

さて、夫が再婚していたことで独り身となった和子には興行師から声がかかり、小さな劇場をまわる生活を始めた。
1952年11月、和子はレビュー出演のため、「千歳丸」に乗って横浜に訪日。そして記者会見に応じ、島内での出来事を話した。

和子は「私は女王蜂ではない。アナタハンの真相を知ってほしい」と述べた。
記者団の質問には「結婚した相手は4人。わたしが原因で殺されたのは2人だけで、あとは食べ物を巡ってや、男同士のケンカや諍いで亡くなったのです」と答えた。

アナタハンという言葉も流行語となり、しばらくご無沙汰になった時などに「長い間アナタハンにしていまして・・・」などと使われたという。

しばらくは事件をモデルにした芝居に出演していたが、ブームも去ってストリッパーに転じた後に、興行主に捨てられる。
その後、和子は大阪西成区のスタンドで女給として働いていたが、昭和29年8月、ここで傷害事件の被害者となり、〝転落の女王〟ぶりが暴露された。

その後、故郷の沖縄に戻って「アナタハン」という小さな食堂を開いた。やがて、2人の子がいる男性と再婚し、やっと平穏な生活を取り戻した。
夫と死別した後はたこ焼屋をやっていたが、1972年に脳腫瘍のため死去した。享年50歳。


和子は6年間に5度夫を変えて、内4人が亡くなった。
極限の状況下で生き抜こうとする本能と女性をめぐる性の抗争、男の嫉妬が野獣的に爆発した猟奇的な事件であった。

ただ、終戦の混乱と米国信託統治の関係から権力空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点が残されており、
和子自身が語ったように、島で不審死した男たちの全てが和子を巡って死んだと確定したわけではない。

もちろん死者に口はないわけで、本当に和子が原因で殺された男は二人だけだったのかは定かではないが、
衛生など望むべくもない環境と食糧にも苦労する極限状態下で、事故や病気で不慮の死を遂げたり、
食糧を巡って殺し合いに発展することが一度もなかったとは考えにくく、全ての犠牲が和子のせいということも恐らくないだろう。


ちなみに、その身体を目当てに殺人まで起こったということで和子が美人だと思った人も多いと思うが、
ブームになった頃に撮られたブロマイド等を見てみると分かるが、少なくとも容姿については美人とはいえないとだけ言っておく。



追記修正は、女王蜂に惑わされない人にお願いします。

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最終更新:2024年02月23日 18:55