上野動物園黒ヒョウ脱走事件

登録日:2016/08/19 (金) 10:45:00
更新日:2023/04/17 Mon 10:32:18
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概要

上野動物園黒ヒョウ脱走事件とは、1936年(昭和11年)7月25日の早朝に、恩賜上野動物園で飼育されていた黒ヒョウのメス1頭が脱走した事件。
脱走した黒ヒョウは約12時間半後に捕獲されたので、大きな被害には至らなかったが、大型ネコ科の脅威を知らなかった当時の人々に大きな衝撃を与え、
同じ年に発生した「阿部定事件」、「二・二六事件」と並んで「昭和11年の三大事件」と評された。


発生の経緯

この黒ヒョウは、体長が4尺5寸(約136cm)、体重14貫(52.5kg)で、年齢6歳。
シャム(後のタイ王国)で捕獲された野生の個体で、シャムを経済使節として訪問した実業家の安川雄之助を通して贈られた。
1936年(昭和11年)5月18日に川崎から陸揚げした後、上野動物園の猛獣舎に収容される為にトラックで運搬された。
捕獲後すぐに贈られてきた為、環境にも人間にも馴染まず、寝室内の暗い隅にいることが多くて運動場にさえなかなか出ようとしなかった。

7月になると暑さが厳しくなり、黒ヒョウは事件発生の10日前あたりから食欲不振となった為、黒ヒョウの体調を気遣って「夜間なら運動場に出るのでは?」
との配慮から、その日初めて寝室と運動場の仕切り戸を開放したままにしておいた。

深夜の午前2時に巡回した時には特段の異常は無かったものの、翌日の早朝の午前5時過ぎに飼育担当者が巡回した際には、黒ヒョウは姿を消していた。
直ちに職員約100人を動員しての園内の捜索が行われたが、黒ヒョウの発見には至らず動物園は臨時休園となった。


捕獲までの経緯

当時はヒョウに対する知識も少なく、実際に見た事のある人も少ない為、「ネコの大きいやつ」ぐらいの認識でしかなかった。
しかし、ヒョウというのは非常に獰猛な生き物で、人間を襲って食べる事もある為、地元の人間からすれば「ライオン」や「バッファロー」等と同じレベルで危険視されている。
当時の技術では、そのすばしっこい黒ヒョウを捕まえるのも難しく、捕まえる以前に逆襲される可能性も高い為、かなりの苦戦を強いられたのだった。

上野動物園は、上野警察署と上野憲兵分隊に黒ヒョウの脱走を通報した。

警視庁からは特別警備隊が出動し、猟友会の鉄砲組や警防団なども加えて、総勢700人余りが参加する大規模なものとなった。
警視庁では大正8年に直轄警察犬制度を廃止しており、民間の社團法人帝國軍用犬協會(KV)が、シェパードの宣伝活動や蕃殖用の種犬として
所有していた「軍用適種犬」を投入した。*1
また、人間も犬の様に這い蹲って足跡を探したところ、餌目当てなのか鶏舎の前でいくつかが重複されているのが見つかったが、厳重な金網に阻まれ目的を達する事が出来なかったらしい。

隙のない捜索によって園内には既に居ないと判断された為、捜索範囲を広げて上野公園全体とした。

上野公園への一般市民の立ち入りは禁止され、厳戒態勢の中で捜索が続けられると、動物園と美術学校(後の東京芸術大学)の境界にある
千川上水の開渠部分から暗渠部へと入っていく入り口付近(所謂、下水の地下トンネル)で黒ヒョウの足跡と思われるものが発見された。
続いて、二本杉原という場所の間の小道にあるマンホールの下で、暗がりに光る黒ヒョウの目を見つけた。

袋のネズミネコを追い込む為に、上野公園内にあるマンホールの蓋を1つずつ開けて、猛獣用の檻を逆に被せて、一方の口から竹竿の先に重油を染みこませたボロ布に火を付けて燻し出す戦術を展開。が、これは見事失敗に終った。

更に猛烈な火焔を注ぎ込む事としたが、黒ヒョウの頑強な抵抗にはこの戦術も効能が無いらしく、又々失敗に終わった。

すると、上野動物園のボイラー係を務めていたボイラー技工士の原田国太郎氏が、「そんなデッカイ猫*2だったら、俺が捕まえてやるよ♪」と、ふんどし姿にベニヤ板1枚を盾にして地下トンネルへと潜ったのだった。
ただし、暗渠の中は火攻の煙と有毒ガスが充満していたので、すぐさま咳き込んで出てきた。

続いて二ヶ所の換気口を作り、煙が粗方排気された頃に、原田氏による奇策トコロテン戦術が再度試みられた。

原田氏によって徐々に黒ヒョウの退路が断たれて押し出されていき、午後五時十分頃に原田氏の押す蓋がやっと檻の下付近まで達する事となった。
しかし、黒ヒョウは凄じい怒声を発するだけで、檻の中に入ろうとはしない。

そこで、檻をズリ下げてマンホールの口元は網だけにし、万が一の為に犬を入り口脇に待機させて、黒ヒョウを檻へと誘導させることにした。
やがて、黒い固りが勢い良く躍り上って檻へと飛び込んだ所に、檻の戸が閉められて見事捕獲となった。


脱走の原因

黒ヒョウは高いところへと行きたがる習性があるのだが、飼育係は気が付いていなかった。

猛獣舎に付属している運動場は屋外に設置された檻であるため、陽射しを遮る屋根の代わりに放射状に伸びた鉄棒が組み合わされていて、
運動場の上を天井のようにすっぽりと覆う形になっていた。

天井代わりの鉄棒と鉄棒の間に、わずかながら幅の広いところと狭いところができていて、1カ所のみ黒ヒョウの頭部が入り込める程度の隙間があった。
その部分に、真っ黒な毛が数箇所にこびり付いていたので、黒ヒョウはここから脱走したものと判明した。


後日談

黒ヒョウ脱走事件からわずか5日後の7月30日、今度はシカの脱走事件が発生した。
上野公園外の上野広小路の洋品店前までさしかかったところで群衆によって取り押さえられたが、シカは搬送途中で心臓麻痺を起こして死んでしまった。

黒ヒョウ捕獲に活躍した原田国太郎氏は、10月30日付で特別賞与金として5円(1円が今の価値で2000~3000円)が与えられた。

捕獲された黒ヒョウは、事件後約4年間生きた(大きな獣害とはならなかったので、そのまま生かされた)。
黒ヒョウの死因は下顎にできた腫瘍であった。


余談

この黒ヒョウの驚異に対して、
  • 社團法人日本シエパード犬協會(JSV):日本初の国際畜犬団体。
  • 社團法人帝國軍用犬協會(KV):民間で飼育される軍用適種犬の登録団体。
  • 社團法人日本犬保存會:日本犬の登録団体。
という三大畜犬団体の犬が共同作戦を展開する事となった。
当時「敵対関係」にあったKVとJSVが一緒に出動したのは、これが最初で最後の事例である。

警視庁の伊東警部は、これを契機に廃止された警察犬の再配備を提唱し、再配備されたものの戦況悪化で再度廃止された。

第2次世界大戦中に実施された上野動物園での戦時猛獣処分は、この事件の影響があったといわれている。



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最終更新:2023年04月17日 10:32

*1 警察犬空白の時代、こうした在郷軍用犬が警察犬や救助犬の代役を務めていた。

*2 ヒョウが獰猛な大型ネコ種であるという知識が無かった為