小鶴誠

登録日:2016/08/13 Sat 23:53:00
更新日:2023/03/24 Fri 23:42:36
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「こんな真夜中にどこへ行くんね!?」



「広島駅じゃ。小鶴がわしらの熱意をきいて夜行列車で広島に来るんじゃ!
 カープに入団するんじゃ!しっかり迎えてやらんとのう。」



「なにもこんな真夜中に行かんでも…」



「ばかたれっ。歓迎せんとわしの気持ちがゆるさんわい。」



「あきれた!」








…広島駅



…シュー シュー



「きたきた。小鶴が来たぞ!」



「あんたこんな深夜にラッパを吹くのはやめんさい。他のお客の迷惑になるけえ。」



「うるへー!文句を抜かすとぶっ殺すぞ!あっ小鶴じゃ!小鶴がおるぞー!」









小 鶴 バ ン ザ ー イ ! バ ン ザ ー イ !







小鶴ー!よう広島へきたのう!待っとったぞ!










小鶴誠(こづる まこと)とは、プロ野球選手(外野手、内野手)である。右投げ右打ち。

出身は福岡県飯塚市。生年月日は1922年12月17日。
1942年に名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に入団。戦後、日本野球連盟2リーグ分立の時代に活躍した選手であった。


プロ入り前

飯塚商業専修学校を経て、八幡製鐵所で社会人野球をプレーしていた。
第二次世界大戦の最中、当時の八幡製鉄所は軍需工場のため転職が認められておらず、
「勉強するつもりはないけど、日本大学の夜学に通って自由に野球をしよう」と思い立ち退社。
出身地にちなんだ飯塚誠の偽名を使い、これを登録名に用いて1942年に名古屋軍に入団。
場内アナウンスされても、自分のことではないような不思議な感覚だったという。



プロ入り後

1年目からレギュラーとして活躍。1944年は応召のため球団に在籍しなかった。

1946年に中部日本軍に復帰するものの、1948年に球団代表の赤嶺昌志と中部日本新聞社の
対立によって赤嶺が辞任に追い込まれると、後を追って退団(俗にいう“赤嶺旋風”)。
急映フライヤーズに移籍した。
この間、のちに松竹ロビンスの監督も務めた新田恭一に指導を受け、
腰の回転を使いダウンスイングで打つゴルフスイング打法を習得した。(うねり打法とも呼ばれる)

新田が元ゴルファーだったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の流行語となった。
しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解も招いた。

※参考動画:歴代のスラッガーの中で、小鶴のみ実にシャープな現代風のスイングをしている。
肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者の中で、
小柄で腕力もない小鶴の腰の回転を利用した円滑で美麗なスイングは新鮮であった


1949年に大映スターズに移籍した後、上述の通りバットを力まずに振る感覚を身につけ、
打撃奨励のためのラビットボールと呼ばれる飛ぶボールが採用されたこともあり、
飛躍的に打撃成績が向上した。同年は打率.361で首位打者を獲得。ベストナインにも輝く。


1950年、松竹ロビンスに移籍。
史上初のトリプルスリー岩本義行、入団二年目38歳でシーズン34本塁打を放った大岡虎雄、
セ・リーグ歴代2位のシーズン74盗塁を記録した金山次郎らと共に、
「水爆打線」と呼ばれた今では考えられない名前の超強力打線を形成した。

この年は前年に生まれた藤村富美男の日本記録の46本を更新する47本を放ち、
さらに11月2日の対大洋ホエールズ戦(日生球場)において、3回大洋の今西錬太郎から
レフトへ日本プロ野球史上初のシーズン50本目の本塁打を放つ。

シーズンを通して130試合の出場で打率.355・51本塁打・161打点という驚異的な成績でリーグ優勝に貢献。
本塁打・打点の2冠とシーズンMVP、ベストナインを獲得したが、打率は.362の藤村富美男に及ばなかった。
また、この年は28盗塁を記録し、日本球界唯一の50本塁打20盗塁を達成している。
当時、この記録はメジャーリーグでも達成者がいなかった。

しかしシーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、日本シリーズでは活躍できなかった。
翌1951年からは飛ぶボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、成績を落とした。
だが、小鶴は一躍日本プロ野球の大スターとなった。


1953年に広島カープへ移籍。カープに入団するために乗ってきた汽車が広島に着いたのが深夜だったにもかかわらず、大勢の市民が出迎えた。
石本秀一監督と樽募金で資金を集めた広島市民の熱意により移籍が実現し、球界の大スター入団に広島の町は沸き返った。
往年の力は発揮出来なかったが、この年は自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、
ファンも意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。
計6年間勝率が低かった当時のチームを支えた。1958年に現役引退。



引退後

引退後は国鉄スワローズ、阪神タイガースのコーチを務めた。
阪神時代は投手として入団した桑野議を打者に転向させたほか、掛布雅之の入団テストを担当。

球界から離れた後はビル管理会社経営をしていた。還暦までバッティングセンターに通い続け、
毎日200球ほど打ち込み、打撃を追求し続けていたという打撃の職人であった。

1980年、野球殿堂入り。
2003年6月2日、心室細動の為、東京都豊島区の病院で死去。満80歳没。


人物

1950年に記録した161打点・143得点・376塁打は今なお破られていないNPBシーズン記録である。
現在では交流戦含め1シーズン143試合であるが、当時130試合のみで小鶴はこれほどの打点を稼いだ。
シーズン161打点で誤解されがちだが、本来はホームランバッタータイプではなく、
巧打、俊足、強肩の選手であり、通算240盗塁を記録。
「ランナーも帰すし、自分も帰る」という、とにかく点数に関わる選手であった。
1950年シーズン記録は単純計算で、毎試合必ずランナーを帰し、毎試合必ず自分もホームに帰ったことになる。
そう考えるととんでもない成績である。


趣味は映画・相撲とのこと。(1957年広島カープ選手名鑑より)

美しい打撃フォームと、その面長で鼻筋の通った風貌から『和製ディマジオ』と呼ばれ、
後に来日したディマジオと対面、並んで写真に収まっている。


新田恭一の指導のもと取得した『ゴルフスイング打法』この新打法によって日本プロ野球初50本塁打を放った小鶴は
「ボールが止まって見えた」とも豪語していた。
しかし、 当時所属していた松竹ロビンスは弱小チームでこれでは話題にならないと判断した報知新聞記者が
この発言を川上哲治のものと捏造して記事にしてしまい、後世にも川上の名言として定着している。


諸君も「打撃の神様、川上哲治はボールが止まって見えたんだぜw」という輩を見かけたら、
「それ捏造だから。小鶴誠の発言だからw」と返してあげよう。


実況パワフルプロ野球8(開幕版)ではサクセスのラスボスである伝説最強チームの主砲として主人公たちに立ちはだかる。
王貞治長嶋茂雄らを差し置いて4番に居座り、その圧倒的な打撃成績と選手能力でプレイヤーの度肝を抜いた。




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  • 水爆打線
  • 161打点
  • 143得点
  • 376塁打
  • 史上初の50本塁打
  • シーズン打点数・塁打数・得点数の歴代1位記録保持者

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最終更新:2023年03月24日 23:42