1999年天皇杯決勝戦

登録日:2016/07/30 (土) 23:08:00
更新日:2024/01/09 Tue 14:35:22
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天皇杯全日本サッカー選手権決勝戦。
毎年元日に行われるこの試合は、100年近くの歴史を誇る伝統の大会にしてプロ、アマ問わずすべてのクラブが真の日本一を目指す日本サッカー最大規模の大会の頂点を決める試合であり、シーズンの終わり(シーズン最後の公式戦)とはじまり(シーズン最初の公式戦)両方を意味する大会の試合である。

しかし、1999年の天皇杯の決勝は今までの大会とは明らかに雰囲気が違っていた。
もちろん、シーズン最後にして最初のタイトルがかかった大会であるため、クラブ、サポーターのモチベーションは常に極めて高いのであるが、例年のそれとは比較にならないほど、緊張感が高まっていた。

それは、この試合を最後にJリーグ、いや日本サッカーから一つのクラブチームが姿を消すからであった。


そのチームの名は、横浜フリューゲルス

横浜フリューゲルス


最近Jリーグを見始めたファンなら、このチームの名を知らない者も多いのではないだろうか。
横浜フリューゲルスは、Jリーグ創成期に存在したいわゆる「オリジナル10」の一つであるチームであり、JSLに所属していた全日空サッカークラブを前身としている。
今もお馴染みの横浜マリノスとは、同じ横浜をホームタウン、横浜三ツ沢球戯場を本拠地とするクラブチームであり、マリノスとの対決はJリーグ唯一のダービーマッチである「横浜ダービー」として多くのファンに親しまれていた。
数年後、セレッソ大阪が参入してガンバ大阪との「大阪ダービー」が始まったことでJリーグ唯一のダービーマッチではなくなったものの、それでもこの2チームの対決は横浜市民を沸かせるイベントであった。

チームとしても、Jリーグ開幕元年の1993年に天皇杯で優勝し初タイトルを獲得、95年には今のAFCチャンピオンズリーグの全身であるアジアカップウィナーズカップのタイトルを獲得した。その後も優勝争いにこそあまり絡まなかったが、前園真聖、楢崎正剛、山口基弘、三浦淳宏ら日本代表でも活躍する選手の台頭や、現役ブラジル代表のサンパイオやジーニョといった優秀外国人の活躍もあり安定した成績を残し、Jリーグを代表する強豪クラブのひとつであった。

突然の合併発表


だが、1998年の10月29日、マスコミに出し抜かれる形で突然の発表があった。




横浜フリューゲルスは、横浜マリノスと合併する




フランスワールドカップ初出場に沸き返る日本のサッカーファン、特にフリューゲルスのファンにとって、まさに青天の霹靂、寝耳に水の発表であった。
経緯としては、親会社の経営不振にあった。
もともと、横浜フリューゲルスは、全日空と佐藤工業の二社による共同経営によるクラブとなっていたのだが、不景気による経営不振から佐藤工業がクラブ運営からの撤退を余儀なくされ、全日空も経営不振に陥っていたことでクラブ運営が実質的に不可能となってしまったのだ。

既に長くプロリーグの歴史がある日本プロ野球では球団の親会社が買収などで変更されるのは珍しいケースではない(パリーグ6球団は新規参入である楽天以外は全チームが親会社の変更を経験しており、セリーグもヤクルト、横浜は親会社の変更を経験している)が、誕生してまだ数年のJリーグでは親会社が球団経営能力を失うことは初の出来事であり、クラブ関係者は対処に悩んだ結果、同じ横浜を本拠地とするマリノスに引き取ってもらう案が浮上し、マリノスの親会社の日産自動車もこれを承諾したためであったが、実質フリューゲルスの経営資本が経営能力を失っていたために、合併とは聞こえがいいが、実質的にはマリノスに吸収される形でフリューゲルスが消滅することを意味していた。

当然、事前通告もない突然の発表、しかもライバルである横浜マリノスとの合併ともあり、サポーター、選手が納得できるはずもなくクラブには抗議の声が殺到し、多くの反対署名が集まった。
選手たちは今シーズンの残り4試合を全て勝利し、合併が間違いだということを証明しようと奮闘した。
サポーターたちも「横浜フリューゲルスを存続させる会」を設立し、必死で合併を阻止しようと抵抗した。

しかし、親会社の全日空にはもはやクラブを経営できる力はなく、他にチームの存続の方法も出ずに12月2日にクラブ合併が強行され、横浜フリューゲルスはJリーグを去ることとなってしまった。

最後の天皇杯


シーズン終了を迎えたが、横浜フリューゲルスは目下開催中だった天皇杯全日本サッカー選手権で、3回戦からシードで出場することが決定していた。

文字通り、敗退すればその時点でクラブは消滅する。

同大会においては出場機会に恵まれず、翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他チームへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった桜井孝司らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でチームがさらに一丸となり、フルメンバーで優勝を目指すことで団結した。
当時のJリーグは今の群雄割拠の状態とは違い、ジュビロ磐田鹿島アントラーズの実質2強状態であったが、フリューゲルスは3回戦、4回戦を危なげなく突破し、さらに準々決勝でジュビロ磐田、準決勝で鹿島アントラーズを破る驚異的な強さを見せる。

一日でも多く試合を、このチームと、サポーターと続けたい…。選手たちの魂の叫びだった。

そして、ついに1999年1月1日、天皇杯決勝戦を迎えた。
対戦相手の清水エスパルスは、フリューゲルスの状況を考えると皮肉にもヒール(悪役)的な立場となってしまったが、エスパルス側も天皇杯の初タイトルがかかっており、そのタイトルを手にするために意気揚々と試合に臨んでいた。

そして偶然にも、清水エスパルスは横浜フリュ―ゲルスの93年のJリーグ開幕戦の相手であった。
文字通り、フリューゲルスの最初の敵となったエスパルスは、フリューゲルス最後の敵となったのであった。



いつもの空、いつもの風、そして、いつもの芝。

しかし空気だけは今年は違います。

第78回天皇杯決勝戦。全国に共感を巻き起こしながら今日が最後の横浜フリューゲルス。

対する清水エスパルスは初めての決勝戦です。

───NHKアナウンサー 山本浩氏



サポーターたちの横断幕には、作家の銀色夏生の詩から引用された次のような言葉がつづられていた。





この想いは決して終わりじゃない。

なぜなら終わらせないと僕らが決めたから。

いろんなところへ行っていろんな夢を見ておいで。

そして最後に 君のそばで会おう




5万人のサポーターが見守る中、遂にフリューゲルス最後の試合が始まった。

前半13分、エスパルスの沢登に先制ゴールを許す。
その後もエスパルスがボールを支配し、フリューゲルスは守る時間帯が続く。最後の試合は黒星で終わってしまうのか…。サポーターが一度はそう思った。

しかし勝って有終の美を飾ると心に決めたフリューゲルスイレブンは諦めなかった。前半終了間際、久保山由清が同点ゴールを奪い返し、前半を1-1で折り返す。さらに後半は一転すると猛攻を見せ、後半28分、吉田孝行が遂に勝ち越しゴールを奪う。エスパルスも矢継ぎ早に選手交代を行い対抗するが、選手たちは支えてくれたサポーター、スタッフのために最後まで戦い抜く。

そしてフリューゲルスの勝利を告げるホイッスルが鳴り響き、フリュ―ゲルス最後の試合が終わった。
チーム消滅の横浜フリューゲルスを、サッカーの神様は見捨てなかった。
最後の試合を日本一のチームとなって、横浜フリュ―ゲルスはJリーグを去ることになった。
奇しくも1998年は、1年前の神奈川大学の箱根駅伝優勝に始まり、関東学院大学奇跡の大学ラグビー日本一、横浜高校の高校野球4冠、横浜ベイスターズ日本一と、後に「横浜イヤー」と呼ばれることとなった年。それを締めくくる勝利でもあった。
両チームのサポーターから惜しみない歓声、拍手がフリュ―ゲルスに贈られた。

さようなら、横浜フリュ―ゲルス。

今まで本当にありがとう、横浜フリューゲルス。

その後


横浜マリノスは合併した新チーム名をフリューゲルス由来の「F」を加えた「横浜F・マリノス」へと改称したが、新チームはマリノスを継承したものとなり、フリューゲルスの歴史は傍系扱いとなった。(競技は違うが、近年のオリックスと近鉄の合併時も、似た状態だった)

チームの合併発表時にフリューゲルスへ在籍していた23選手は、関係者の尽力や天皇杯の活躍もあって、翌年も大久保貴広(本田技研、JFL)以外は全員Jリーグクラブ(J2を含む)との契約を果たした。
その中には当時まだルーキーだった、後に日本屈指のボランチとなる遠藤保仁や、正守護神として名古屋グランパスや日本代表で活躍した楢崎正剛らの名前もあった。
そして2024年1月、最後のフリューゲルス戦士であった遠藤が引退したことで、フリューゲルスに現役で在籍した選手はすべてユニフォームを脱いだ。

フリューゲルス最後の監督となってしまったドイツ出身のゲルト・エンゲルス氏は最後のホームゲーム時、「誰でもいい!助けてくれ!」とサポーターに叫び、天皇杯優勝後のインタビューで「カップ戦で優勝したチームがすぐに消滅するなんて、ドイツではありえない」と日本サッカーに警鐘を鳴らした。
その後は浦和、京都のコーチ、監督を務めている。

また、横浜フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はこれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、その活動が実り1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」を運営会社として横浜FCが設立され、特例として日本フットボールリーグ(JFL)への参加が認められた。
横浜FCはJFLで2年連続で優勝した2000年のシーズン終了後には翌2001年からのJリーグ(J2)参加が認められたが、その際にフリューゲルスとは別の存在であると明確にしたため、元フリューゲルスサポーターの中には横浜FCから離反する動きも見られた。

その後、横浜FCはフリューゲルスとは異なる、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されない事になった。
ただし、横浜FCが横浜Fの影響を色濃く残している事も確かである。横浜Fの略称である「フリエ」を関したその会社名は現在まで変更されていない。
そして現在、かつてフリューゲルスが本拠地とした三ツ沢競技場をホームに、Jの舞台でしのぎを削っている。

マリノスとフリューゲルスは共に横浜市のクラブで、「地域からJリーグがなくなる」訳ではなかったが、合併によるチーム消滅がマスメディアなどで大きく扱われてサッカーファン全体からの猛反発を呼んだ事は、クラブ経営陣や地域社会への貴重な先例となった。

親会社に依存した各クラブの経営体質に問題があると判断した川淵三郎チェアマン(当時)はこの事件を機に、経営監視体制の強化に乗り出し、各クラブの財務状況の公開を徐々に進めた。また、Jリーグ2部制では、より経営環境が厳しくなるJ2の各クラブに一層の地域密着を求めた。
「Jリーグのクラブはつぶすことができない。何らかの存続の方法を見つけなければならない」という認識が広まった結果、経営団体の交代などはあっても、クラブ自体は存続するという形が生まれた。

92年のJリーグの実質的なスタートから時は流れ、これまでに57のクラブが加盟したが、マリノスとの合併という形で「消えた」フリューゲルスを除く56のクラブが現在も活動を続けている。それは、「地域のサポーター」というJリーグならではの人びとの思いがすべてのクラブ関係者にしっかりと理解された結果だった。

横浜フリューゲルスの名は、日本サッカーから姿を消した。

しかし、日本のサッカーファンの中にフリューゲルスの魂は今でも生き続けている。



私たちは決して忘れないでしょう。

横浜フリュ―ゲルスという、非常に強いチームがあったことを。

東京国立競技場、空はまだ横浜フリュ―ゲルスのブルーに染まっています。

───NHKアナウンサー 山本浩氏



追記、修正は今も昔も横浜フリューゲルスを愛する皆さま、お願いします。

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最終更新:2024年01月09日 14:35