石狩沼田幌新事件

登録日:2016/07/13(水) 16:06:35
更新日:2023/11/30 Thu 01:54:31
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※この項目では実際に起こった凄惨な獣害事件を明記しています。閲覧には注意してください。


石狩沼田幌新事件とは、1923年(大正12年)8月21日から24日にかけて、北海道雨竜郡沼田町幌新地区で発生した熊による獣害事件である。
5名死亡、2名重傷者という大被害を出しており、国内史上2番目の獣害事件とされている。

【背景】

8月21日の夜は、北海道沼田町恵比島地区で太子祭り(聖徳太子を職人の神と崇める民間信仰)が開催されており、
開墾間もない当時は娯楽も少なかった為、余興で上演される浪花節や人情芝居を目的に、職人だけではなく、
近隣の村々からも人々が詰め掛けており、多くの人で大変賑わっていた。

【8月21日】

大盛況であった祭りも午後11時30分頃にはお開きとなり、幌新地区の支線沢や本通筋から来ていた20人ほどが
夜の山道を家路へと急いでいた。

一団は幌新本通に面した沢に差し掛かった時、突然暗闇から異様なうなり声が聞こえてきた。
一団から50メートルほど遅れて歩いていた林謙三郎(19歳)はその声に驚きながらも、気配のあった背後に振り向いて
目を見開いた瞬間、藪から飛び出してきた巨大なヒグマが林謙三郎に向かって襲いかかってきた。
後ろから着物と帯に爪を引っ掛けられた林謙三郎は力一杯暴れて、着物や帯がボロボロになりつつもなんとか逃げる事が出来た。
大怪我を負ったものの、「熊だ! 熊だぁ! 」と叫んで前方の一団に這々の体で危険を知らせに走ったが、
既に一人目の犠牲者が出てしまった後だった。

ヒグマの行動は迅速で、一団の先頭部に先回りして、村田幸次郎(15歳)を一撃で撲殺し、
その隣にいた幸次郎の兄・村田由郎(18歳)に飛び掛かって重傷を負わせたのち、彼を生きたまま保存食用として土中に埋めた。

そして、埋められた兄・由郎の近くで弟・幸次郎の遺体を不気味な咀嚼音を立てながら内臓から食事を始めた。

突然のヒグマの出現にパニックに陥った一団は、現場から約300メートル程離れた木造平屋建ての農家・持地乙松宅に逃げ込み、
玄関には篝火を焚き、囲炉裏に大量の白樺の樹皮を投込んで火を強めて(野生の動物は火を恐れるはず・・・)、
屋根裏や押入れの中に身を隠し、励ましあいつつ、現時点で出来うる限りの立ち向かう手はずを整えた。

30分ほどすると、ヒグマは幸次郎の内臓を咀嚼しながら持地宅に現れて、家の周りをウロウロし始めた。
ヒグマが半開きの玄関に回り込もうとしているのが目に映り、村田兄弟の父親・村田三太郎(54歳)は
これを入れるまいと必死に戸を抑えたが、ヒグマは扉ごと三太郎を押し倒して侵入、三太郎は近くのスコップを手に取って
必死に立ち向かうが、一撃で叩き伏せられて重傷を負った。

ヒグマは囲炉裏に燃えている炎を大きな足でもみ消したあと、部屋の隅で震えていた三太郎の妻、ウメ(56歳)を口に咥えると、
家を出て行く気配を見せた為、夫・三太郎は自らの深手も忘れて半狂乱になってヒグマをスコップで打ち据えるが、
意に介すこともなく向かいの山中へとウメを引き摺り悠々と深い暗闇の山中へ姿を消した。
(資料によってはうっかり家の外に出た所を襲われたと記述してある資料もある)

熊の去った方向から、ウメの「助けてくれ・・・」という叫び声が何度か響いた後、かすかな念仏が何度も何度も続けて聞こえてきたが、
その声すらも次第に遠ざかり、夜風に吹き消されてしまったのであった。
後述する由郎の証言によると「痛い」「怖い」という母の声に加えて、熊が母を咀嚼するバリバリという生々しい音が聞こえていたらしい。

妻子を無残に奪われた三太郎をはじめ、残された避難民らは心身ともに苦痛に苛まれて焦燥に駆られるばかりであった。
銃の備えもない農家の為、屋内に閉じこもって我が身を守る以外には打つ手も無く、異様なまでに血生臭い臭気が漂う場で、
虚しい思いが立ち込める中、日の出を迎える事になったと云われている。


【8月22日】

早朝、事情を知らない村民が持地宅の側を偶然通りかかった為、屋内の一団は大声で助けを求めた。
周囲にヒグマがいない事を確認した上で一斉に戸外へと転げ出た。そして、皆でウメの捜索を開始した。
しばらくすると、近隣の藪の中で下半身を全て食されたウメの亡骸を発見した。

その後、土中に埋められていた由郎も発見した。由郎はまだ息があった為、急いで沼田市街の病院に搬送されたが、
手当の甲斐無く、間もなく死亡した……とされていたが後に存命だったことが判明する。(後述)

22日中には、この惨劇は沼田全域に知れ渡る事となった。


【8月23日】

早速、地元で熊撃ち名人として有名なマタギの砂澤友太郎を筆頭に、雨竜村の伏古集落在住の3人のアイヌの狩人が応援に駆けつけた。
そのうちの1人、恵比島に住む長江政太郎(56歳)は、凶悪なヒグマに憤慨し『そのような悪い熊は、是が非でも自分が仕留めなければならない!』
と周囲が引き留めるも聞かず、単身で猟銃を手に熊狩りへ赴いたが、山中で数発の銃声を響かせたのを最後に戻る事はなかった。


【8月24日】

24日には、幌新と恵比島部落の60歳未満の男性が残らず出動、在郷軍、消防組、青年団など、総数300人あまりの熊狩り隊が幌新地区に集合。
早速、討伐隊はヒグマを探索すべく山中に入った所、討伐隊が入ってくるのを予測していたかの様に、討伐隊後方に突然黒い巨体を現して、
最後尾に付いていた上野由松(57歳)を一撃の下で撲殺し、側に居た同隊の折笠徳治にも重傷を負わせた。

さらに、ヒグマは雄叫びを上げて、真っ赤な口を開けながら別の討伐隊メンバーに襲いかかろうとしたが、
傍にいた現役除隊して間もない軍人が咄嗟に放った銃弾がヒグマの体に見事に命中してヒグマが怯んだのを機に、
鉄砲隊が一斉射撃を浴びせて、 凶悪なヒグマも遂に倒れた。

その後、この現場の付近で昨日から行方不明になっていた長江政太郎が、頭部以外を全て食い尽くされた状態の遺体として発見された。


【被害者数と知られざる生存者】

村田幸次郎、村田ウメ、長江政太郎、上野由松の4人が亡くなり、村田由郎、村田三太郎、折笠徳治の3人が重傷(発見当時)を負った。

内、村田由郎は搬送先で死亡と、現地の事件を伝える文にも記されているなど定説化していたが、実際は別の病院を移送された後に救命処置を受け、奇跡的に一命をとりとめたとのこと。
では何故死亡扱いにされたかと言うと、最初に運び込まれた病院でその見るも無惨な有様に医者から「これは助からん」と判断されて死亡扱いになり、それが事件の記録として記されたからなのだとかおいおい先生よ…。
そして彼の息子が、貴重な証言をテープに録音して残していたことが100年経過してから報道陣に明かされた。
なお由郎は1986年の80歳まで生存していたといい、子孫はこの証言を元に語り継いでいくことを考えているらしい。




【剥製】

身長2メートルあまり、体重200キロ程度の雄のヒグマで、解剖の結果、胃袋の中からは大ざる一杯分程の人骨と未消化の人の指が発見された。
ヒグマの毛皮は事件後は幌新小学校に保存されていたが、1967年の廃校に伴い、幌新会館に移され、現在では沼田町郷土資料館に展示されている。


【余談】

後の調査の結果、一行が最初にヒグマに襲われた地点では、斃死した馬の亡骸が保存食として埋められていた事から、
ヒグマは数日前よりこの亡骸を食し、偶然現れた一行を『餌を横取りする外敵』と見なして、排除に及んだ事が事件の発端だと推察された。

日本で2番目に被害が大きい事件でありながら情報が非常に曖昧な事件となっている。
これは明治天皇が視察に訪れた事で当時から有名であった札幌丘珠事件や、後に木村盛武氏の調査によって事件の詳細が判明した三毛別羆事件
多くの遺族、関係者の証言や資料映像が豊富な福岡大ワンゲル部・ヒグマ襲撃事件と比べこの事件は基本資料が「新編沼田町史」と
討伐隊に参加した猟師の砂澤友太郎の妻が記した「ク スクップ オルシペ-私の一代の話」、「ヒグマ」の3種類しかなく、
オマケに資料間に差異も生じるなど事件の詳細を掴むのが困難であるのが原因である。
先の通り死んだとされていた人物が実は生きていたということが判明するなど、情報に誤りが多いのも、世間の関心の薄さを感じさせる。

しかし実際の内容を見れば三毛別羆事件に決して劣らない惨劇であったことがわかるだろう。

この事件の舞台である幌新太刀別川上流部では、その後、炭鉱が開発され2千人以上の人口を有する小都市となった。
恵比島駅を基点とする留萌本線の支線・留萌鉄道も開通して大いに栄えたが、昭和40年代には炭鉱閉山に伴って過疎化。

現在ではダム湖の底に沈んでいる。



追記・修正は、大自然の脅威に立ち向かえる人のみ。


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最終更新:2023年11月30日 01:54