沢田研二

登録日:2016/07/05 (火) 12:10:21
更新日:2024/01/09 Tue 22:33:41
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沢田研二(さわだ けんじ)とは、60年代の昔から現在に至るまで現役で活動し続ける日本の歌手にしてシンガーソングライター、アイドル、俳優である。
当時を知る世代から幅広くリスペクトされている、昭和を代表するスーパースター。

歌謡曲なのにロック、メジャーなのにマイナー、上品なのに過激、など、さまざまな相反する要素を併せ持つその個性は唯一無二の異彩を放ち、その功績は今なお色あせることを知らない。

ニックネームは「ジュリー(Julie)*1」。


◆プロフィール

生年月日:1948年6月25日
出身地:鳥取県鳥取市生まれ、京都府育ち
バンド遍歴:ザ・タイガース(1966~1971、1981~1982、2013)→PYG(1971~1972)→ソロ
デビュー曲:『僕のマリー』(ザ・タイガース)、『花・太陽・雨』(PYG)、『君をのせて』(ソロ)*2
妻:伊藤エミ(小美人の片割れ)→田中裕子 二人とも沢田が作った曲を結婚前に歌い発売している。また田中の弟田中隆三(『相棒』の益子桑栄役)とも2002~4・2008・2010・2017年の音楽劇で共演していた。

◆経歴

●デビュー前~タイガース期

高校生時代、音楽に憧れジャズ喫茶*3に出入りする様になり、そこでアマチュアバンド「ファニーズ」にスカウトされバンドのボーカルになる。

その後、シェケナベイベーで有名なロック歌手の内田裕也との出会いを機に渡辺プロダクションにスカウトされ、バンド仲間とともに上京。
プロデビューに向けて音楽レッスンを重ね、当時フジテレビのディレクターも務めていた作曲家のすぎやまこういちにバンド名を「ザ・タイガース」と改名されてデビュー。何やらプロ野球チームのような名前だが気にしてはいけない。*4

折りしも、当時はGS(グループ・サウンズ。今で言うロックバンドのこと)ブームの真っ只中。
タイガースは沢田の規格外のイケメンっぷりとクオリティの高い楽曲が功を奏し、一躍アイドル的な人気を博すようになる(もっとも、某国営放送等は快く思っておらず、大人受けはよくなかったようだが)。
日本武道館での新曲発表会・後楽園球場でのライブイベントを行い、主演映画も作られるなど大活躍するが、1969年バンド仲間の一人加橋かつみが脱退しメンバーチェンジが発生。*5
時代的にも音楽の潮流はGSからフォークソングに移り変わりつつあり、「事務所に使われたくない・自由がほしい」という気持ちがバンド内に出て来たこともあり(先述のメンバーが抜けたのもそれが理由)、1971年1月の日本武道館ライブをもって「ザ・タイガース」は解散することとなった。*6

●PYG~ソロデビュー

タイガース解散後、バンドリーダーだった岸部修三(後の岸部一徳)と共にバンド「PYG」の結成に参加。
バンドメンバーには、かつてタイガースに負けない人気を誇っていたザ・テンプターズのボーカルであったショーケンこと萩原健一も混じっており、萩原健一と沢田研二が同居しているという最強タッグっぷりが当時大きな話題を呼んだが、諸事情により2年程で半ば自然消滅してしまう。
PYGの楽曲は現在でこそ再評価されているが、当時はタイガースほどの人気は得られなかったらしく、沢田はライブ会場で聴衆に上から目線で説教し始め、怒った聴衆にボロクソに野次を飛ばされて涙目敗走したという残念な逸話が残っている。
タイガース後期から「君を許す」などでソロ活動を始めつつあった沢田は、PYGの末期から本格的にソロに転向することとなった。
ちなみに、PYGのデビュー曲「花・太陽・雨」*7は『帰ってきたウルトラマン』35話で挿入歌として使われている。

1972年、ソロデビューの2曲目「許されない愛」で初の紅白出演を果たすと、1973年には「危険なふたり」で『日本歌謡大賞』を受賞。
1974年には初の単独主演映画『炎の肖像』が公開され、「人気バンドの元ボーカル」という枠を超えた人気を得ることに成功する。
そして1975年、事務所の先輩にあたる「ザ・ピーナッツ」の伊藤エミと比叡山で結婚し*8、式後「比叡山フリーコンサート」を開催。直後に、主演ドラマ『悪魔のようなあいつ』の放送が開始された。
視聴率的には苦戦を強いられたものの、主題歌『時の過ぎゆくままに』は沢田の曲の中でも最高の売り上げとなる大ヒットを記録。
また、本作はバンド仲間の岸部一徳の役者デビュー作でもあり、後に作家になる栗本薫が『悪魔のようなあいつ』をモチーフにした小説を3作書く等、全然ビデオやDVDが発売されなかったのに一部のディープなファン(ないし腐女子)にとって伝説の作品となった。

●70年代後半~80年代

1975年年末と1976年初頭に2度程もめ事を起こし活動が停滞するも、1977年の「さよならをいう気もない」から衣装的に目立つ路線がスタート
「勝手にしやがれ」が『日本レコード大賞』・『日本歌謡大賞』を同時受賞し、他にも「憎みきれないろくでなし」でのパフォーマンス等が話題になった。
1978年には『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の主題歌『ヤマトより愛をこめて』がヒットし、「LOVE(抱きしめたい)」で紅白歌合戦でポップス歌手では初となる大トリを務めた。
他にも主演映画『太陽を盗んだ男』がマニアに受けたり、ドラマ『七人の刑事』で犯人役*9と被害者役*10の両方を演じたりした。
翌年も「カサブランカ・ダンディ」が話題になるも、次の「OH! ギャル」では曲等に不満があったりし、「ロンリー・ウルフ」では前と比べて地味さがぬぐえなかった。
そして1980年、「ロンリーウルフ」収録アルバムからシングルカットした「TOKIO」で…
電飾付きミリタリールック&背中にパラシュートで登場。後に「タケちゃんマン」衣装のモデルになる等視聴者に強いインパクトを残した。
ここから「恋のバッド・チューニング」等ギミックにも凝った衣装・メイク・パフォーマンスが増え、それは海外で言う「グラムロック」や、後の「ビジュアル系」に近い感じだった。
1981年には映画『魔界転生』での天草四朗役で妖艶なラスボスを演じこの時点で既にリアルで妻子持ちなんだが、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」からバックに付いたバンド『エキゾティクス』も濃いメイクをする等より演出が強くなっていた。
また同年のライブイベント『さよなら日劇ウエスタン・カーニバル』を機に「タイガース同窓会」をし、1982年に「色付きの女でいてくれよ」で『ザ・ベストテン』・『ザ・トップテン』に出演していた。
この年の年末に公開された『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で、現在の夫人である田中裕子と初共演。これがきっかけで田中との不倫が始まり、マスコミからのバッシングが激しくなる。しかしこの件では一切だんまりを決め込んだ。
一方1982年の「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」の後『ザ・ベストテン』でのランクインが無くなり、1983年に井上陽水から提供された「背中まで45分」は(それまでに比べて)抑えた演出になっていた。
次の「晴れのちBLUE BOY」ではまた派手な衣装になり、1983年4月~9月まで深夜番組『沢田研二ショー』をしたり「晴れのちBLUE BOY」で紅白出演時に「歌う日露戦争」(byタモリ)な姿で「金杯」を手に入れていたりした。
1984年大河ドラマ『山河燃ゆ』出演を果たすも、同年後半から翌年まで芸能活動を休止。紅白には出演したものの、披露したのは洋楽カバーのシングル「AMAPOLA」だった。

●事務所独立~90年代

1985年、渡辺プロダクションから(渡辺プロの傘下に近い形だったが)独立し、所属レコード会社も変更し再スタート。
渡辺プロ時代に行っていた「アイドル・芸能人」的活動は少なくなり、自作曲が増加する等音楽性や芸術性を深めるような活動が増えた。
だがその所為で「一般ウケ」部分が減っていき、テレビの歌番組減少もあって映像露出が徐々に減っていった。そしてこのころから太り出す。
1986年には朝の連ドラ「はね駒」でヒロインの先生役を演じ話題になる…が同年の後半ロングソバージュヘアで通したため、ドラマ後半で再登場した時違和感が出ていた。
1987年1月、伊藤エミの元に子供と財産の大半を残し離婚。この時の慰謝料は3億と、芸能人の慰謝料では今なお有数の高額を誇る。
1989年11月に前述の田中裕子と再婚し、出雲大社で挙式を開いた。この年の紅白では「ザ・タイガース」とソロ双方で出演している。
1990年代にはテレビ露出は減り、『紅白歌合戦』・『新春かくし芸大会』出演も打ち切り、一時期は過去映像の露出まで規制されていたため一般人からは「誰それ?」的感じになっていた。
だが本人は現在も続く毎年のライブツアー活動と新曲制作、芸術家をモチーフにした舞台「ACT」シリーズに全力投球し、1,2年に一回は映画や外部舞台への出演をしていた。
本人の年齢もあってか、1991年の映画『ヒルコ/妖怪ハンター』で主人公「稗田礼二郎」*11を原作のイメージとは逆の「ラフな田舎の先生」風に演じるなど、
80年代までの「妖艶」・「はかない」・「奇妙」な役を演じることは少なくなっていた。

●そして21世紀~現在

2001年には過去映像の再放送が解禁され、この年のみ様々な歌番組に出演(SMAPとも共演している)、朝の連ドラ『オードリー』にも出演した。
だがそこで久しぶりにテレビに映った沢田の姿に、視聴者から賛否両論が出た。
恐らく過去映像で映る「すっきりとした姿」や、渡辺プロ時代の先輩で一歳違いの布施明・森進一*12の様な「老けてもスタイルはさほど変わらず」を想像していたろう彼らの前に現れたのは…
控えめにいってもふっくらし、明らかにしわが目立ち、どこかドスの聞いたような声の中年だったのだから。
またこの年から90年代の「ACTシリーズ」の代わりに、ドタバタや人情・落ち着いた恋愛などがメインになった『音楽劇』シリーズ*13が始まり、2017年まで続いた。

2002年にはインディーズレーベル『JULIE LABEL』を立ち上げ、より「自分の感じた世界」を歌うようになっている。
2008年には還暦を迎え、還暦記念アルバム『ROCK'N ROLL MARCH』を発売。
同年12月には大阪ドーム・東京ドームで記念ライブ『人間60年・ジュリー祭り』を開催。全80曲を「自分とツアーバンド」のみで歌い切った。
翌年からは毎年の新曲を「年一枚のミニ・アルバム→シングル」(2010年からは全曲自作詞)で発売している。

2009年には内田裕也とのコラボレーションライブを開催。
2010年には長年世話になったミュージシャン加瀬邦彦と彼のバンド『ワイルドワンズ』とのコラボ企画『JULIE with THE WILD ONES』を実施、
アルバム・シングルを発売しライブツアーを開催した。
あけて2011年、この年のライブツアーでは通常の「新曲をメインにしたライブ」と異なり*14、岸部一徳ら旧「タイガース」組をバックにし(『ROCK'N ROLL MARCH』が縁で再会したドラマー瞳みのるも加わって)
「タイガース」時代のライブスタイルを再現したセットリストでライブを行い、解散の日と同じ日に武道館ライブを行った。
そして2013年11~12月、ついに完全に昔のままの「ザ・タイガース」として復活ライブを行い、ラストの東京ドームライブで締めた。

本人の活動方針として「懐メロ歌手」にはならないというものがあるらしく、
現在ではめったにテレビ出演はしていない。だが古希を迎えても毎年ライブツアーを行う*15、活気にあふれた現役歌手である。

2021年には久々の映画『キネマの神様』に出演。撮影前に急逝した盟友・志村けんの代役として主人公・ゴウ役を演じた。しかし相変わらず露出はない。
翌2022年にも主演映画『土を喰らう十二か月』が公開されている。


◆音楽面

基本はロック系と歌謡曲系の歌手。「ザ・タイガース」時代の前期には作詞を担当した橋本淳の趣味からか、やたら少女趣味な歌が多かった。
一方後期には「素晴しい旅行」で自ら作曲を開始し、ソロデビュー曲B面では完全な自作曲を制作した。
ソロ時代初期には作曲は加瀬邦彦、作詞では安井かずみ・山上務夫がメインとなり「叶わぬ恋」や「浪漫」を奏でる世界を歌い、全曲自作の『今、僕は倖せです』の発売もしていた。
『時の過ぎゆくままに』から阿久悠が登板し大野克夫とコンビを組みだす。同曲では「病んだ未来のない男女」を描いたが、
ユーミン作詞の「ウィンクでさよなら」・久世作詞・沢田作曲の「コバルトの季節の中で」を挟んで再び登板した後、
「やせ我慢がカッコよく見える男」をメインテーマにした楽曲を多数制作、ヒットを飛ばした。
阿久がメインで無くなった後は「TOKIO」等バリエーションが増え、「麗人」・「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」などシングルA面作曲も増加した。
事務所独立後は自作詞も増え、90年代後半以降は作曲するより作詞することが多くなっている。
独立初期には「李花幻(りーかげん、いい加減をもじったもの)」というクレジットを使っていたことも。
また「少しだけ」沢田に曲提供したアーティストも多く、シングルで奥居香や藤井尚之、アルバム曲だと若かりし日の松本隆や大瀧詠一、泉谷しげるや吉幾三、樋口了一等が挙げられる。
ついでに言うと1993年のアルバム『REALLY LOVE YA!!』では、「おどるポンポコリン」の歌い手坪倉唯子がバックコーラスとして参加していたりする。
また活動が長期に渡るためか、ソロデビュー曲『君をのせて』・1998年のシングル『永遠に』で宮川泰*16が作曲を担当し、
宮川の死後の2008年、アルバム『ROCK'N ROLL MARCH』で宮川の息子宮川彬良(クインテットの「アキラさん」)が収録曲「神々たちよ護れ」の作曲を担当している。

またデビュー当時~70年代前半のポップス系歌手・GSバンドのライブでは洋楽のカバーが定番になっており、ライブアルバムにもカバー曲が収録されている*17(ソロ初期にも行っていた)。
ソロになった後も「ザ・タイガース」の復活ライブではオリジナル・洋楽半々のセットリストになっていた。

一方2008年の『ROCK'N ROLL MARCH』収録楽曲「我が窮状」は日本国憲法第九条をモチーフとした曲となっており、
2012年から現在までのシングルでは、前年に起こった東日本大震災や原発事故等社会的問題をモチーフにした曲が殆どとなり、それ以外の曲でも震災に関わるあるアイテムがジャケットカバーとして使われ続けている。

・他者への曲提供

80年代までは他歌手への曲提供も行っていた。
タイガース時代の1970年にザ・ピーナッツの「東京の女」等で作曲を担当し、「東京の女」は沢田がまだ出演していない1970年に紅白で歌われた。
1977年には内田裕也に自ら制作した「きめてやる今夜」を贈っている*18。1982年には山口百恵と「ラ・セゾン」をアン・ルイスに提供し、他にも『シブがき隊』や(阪神ファンなのに)後の巨人監督原辰徳に曲提供していた。


◆代表曲

  • シーサイド・バウンド
タイガース初期の曲でノリのいいダンスナンバー。
なぜか歌番組『夜のヒットスタジオ』の「オープニング・メドレー」で使われた事が多く、山口百恵やアルフィーが口ずさんでいる映像がDVD化されている。

  • 君だけに愛を
タイガース時代の代表曲で紅白でも歌われた名作。サビで観客を指さすような動作をするのが定番になっている。

  • 銀河のロマンス
ザ・タイガース初主演映画『世界はボクらを待っている』の主題歌。日本武道館での新曲発表会にて披露され、映画に一部シーンが収録された。
知名度こそ同時収録された『花の首飾り』(リードボーカルはタイガースの加橋かつみ。2011年のライブで沢田もカバーしている)に劣るものの、記念的ライブでは毎度歌われている。

  • 自由に歩いて愛して
PYG期の2ndシングル。沢田・萩原健一がそれぞれソロライブでセルフカバーしている他、近年ではアニメ『コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~』第一期最終回の挿入歌として杏子がカバーしている。

  • 危険なふたり
「年上の女性との恋愛関係とその破綻の気配」というオトナな話題を明るく歌ったソロ初期の代表曲。後に野口五郎がカバーしている。

  • 時の過ぎゆくままに
主演ドラマ『悪魔のようなあいつ』主題歌で自身最大のヒット作。この曲のために「作曲者コンぺ」的な事がされたという。
後に(『シクラメンのかほり』がミリオンセラーとなりこの曲に勝った)布施明がカバーしている。本来はこれでレコード大賞を狙ったとされているが、前述の揉め事でパーになってしまった。

  • 勝手にしやがれ
レコード大賞受賞作で、中折れ帽を投げる動作が特徴的な曲。この時の衣装である「中折れ帽にクリーム色のスーツ」は沢田の代表的なイメージとして多用されている。
また『「勝手にシンドバッド」の題の元ネタ』だとか、『「プレイバックPart2」は一種のアンサーソングじゃね』とか言われたりした。
後にB'zの稲葉浩志が松本孝弘作のカバーアルバムで、「THE ALFEE」の桜井賢が還暦記念ライブでカバーしている。

  • ヤマトより愛をこめて
当時としては珍しい、人気歌手によるアニメソング。曲自体はアニメ知らなくても分かるバラードで、ライブで良く歌われている。
が、なぜか『ザ・ベストテン』のランクイン時くらいしか歌番組で披露しなかった。
カバーした歌手はささきいさおや緒方恵美、ソロライブで披露した「THE ALFEE」の高見沢俊彦がいる。

  • 探偵(悲しきチェイサー)
『ヤマトより愛をこめて』収録アルバム「今度は、華麗な宴にどうぞ。」の伴録曲。栗本薫の短編小説及びそれが原案になった『7人の刑事』28話(沢田・内田裕也ゲスト回)の題になり、
それから30年たった2009年、沢田主演・伊藤蘭共演の音楽劇(作:マキノノゾミ)にもなった。
曲中の「探偵」は絵的にもカッコいいものがあるが、栗本版では「チンピラ探偵内田と弟分の沢田」、音楽劇では「妻子を失った元警官のバーテンダー探偵沢田」と、
ハードボイルドっぽいがなぜか詞のビジュアルイメージとズレたものになっていた。

  • カサブランカ・ダンディ
酒を噴くパフォーマンスで有名な曲。初登場時と紅白出演時では明らかに衣装の「だらけ度」が減っているのが分かる。
なぜか田村直美、工藤静香といった女性カバー版が存在する。

  • TOKIO
タケチャンマンにパクられたもの凄い衣装で有名だが、実は数か月くらいしかその衣装が使われていない(同年の紅白時点で既に別衣装となっている)。作詞はコピーライターでおなじみ糸井重里。元々は同名アルバムのタイトルチューンだった。
2022年には曲調にリアレンジを施した新バージョン『TOKIO 2022』がシングルのカップリングとして発表された。
草彅剛(韓国語版)や及川光博*19、作曲者加瀬邦彦のバンド『ワイルドワンズ』等がこの曲をカバーしている。
また志村けんが沢田の目の前で「変なおじさん」顔してこの衣装をパロったりしていた

  • ス・ト・リ・ッ・パ・ー
煽情的な歌詞と派手なメイク・衣装、特徴的なメロディで耳に焼き付く沢田作曲のロックナンバー。
名前はアレだが紅白でも歌われ、なぜか後に日テレの深夜番組『少女B』のオープニングに使われた。



◆バック(コンサート)バンド

デビュー時「ザ・タイガース」のボーカルで、ソロデビュー時も「PYG」のメンバーだったため、
沢田は現在に至るまで「バンド」スタイルでライブを行うのを常にし、『8時だョ!全員集合』等でも連れてきていた。
また作曲・編曲に関しても積極的にバンドメンバーを起用している。
  • 井上堯之バンド
元「ザ・スパイダース」*20・「PYG」の井上堯之・大野克夫がメインとなり、初期には岸部一徳も参加していたバンド。
「PYG」にいた萩原健一からの依頼で『太陽にほえろ!*21・『傷だらけの天使』のBGMを担当し、他にも『寺内貫太郎一家』の音楽等もしていた。
このように「沢田のバックバンド」専任と言うわけではないのだが、79年までは沢田のコンサート・テレビ出演時のバンドを一手に引き受け、
沢田関連でも『悪魔のようなあいつ』・『太陽を盗んだ男』の音楽を担当、『炎の肖像』にライブ映像が収録されている。
しかし徐々に派手になっていく沢田の演出に井上が違和感を覚え出し、「TOKIO」を最後にバンドは解散した(その後も井上・大野は沢田に曲提供を行っている)。
  • エキゾティクス
「恋のバッド・チューニング」~「おまえがパラダイス」までの『オールウェイズ』の後結成されたコンサートバンド。
この時期には『JULIE & EXOTICS』と題されて「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」が発売されたり、
沢田の衣装に皆も合わせたりとよりバンドとの一体感が高まっていた。
エキゾティクス単体のアルバムもあったものの、1984年に消滅。
  • CO-CoLO
事務所独立時の1985年~1987年のコンサートバンド。
グループ・サウンズ出身組がメインで、バンド「トランザム」や萩原健一のコンサートバンド「Donjuan R&R Band」を経験したメンバーが揃っていた。
だがこの時期のアルバムは、音楽的にはいいのかもしれないがどこか重い曲が多く、後のコンサートでも歌われる事が少ない部類になってしまっている。
  • JAZZ MASTER
1989年~1994年頃のコンサートバンド。
元『エキゾティクス』のリーダー吉田建*22の元、エキゾティクスや現在の鉄人バンドまで沢田と共にいるギタリスト柴山和彦、
吉田と『ルーザー』*23で共演した有名ドラマー村上"ポンタ"秀一等が参加。
後期には「TOKIO」の編曲・最後の紅白出演曲「HELLO」*24の作曲等を担当した後藤次利も参加していた。
  • 鉄人バンド
2008年のドームライブでバックを務めたメンバーにつけられたニックネーム。
元エキゾティクスの柴山和彦をメインにし、皆沢田の楽曲で作曲・レコーディングを一手に引き受けている。
だが2016年の正月ライブでメンバーの一人が交代(以前沢田のバックを務めていたベーシストが登板)し、2017年のツアーがこの編成最後となった。


◆ギャグキャラ?

楽曲や映像ではカッコよく決める姿が多かった沢田だが、同時に「ギャグ映像」も多数残っている。
そもそも「ザ・タイガース」時代既に、「所属者はエンターテイナーたるべき」という事務所の方針でバラエティショー番組『シャボン玉ホリデー』(ザ・ピーナッツのメイン番組)の常連ゲストに。
結果「バンド」としての活動を期待していたメンバーが「ダンス」や「コント」をやらされ、嫌気がさしたりしていた。
70年代には事務所の先輩ドリフターズの『8時だョ!全員集合』にも出演し、後輩にあたる志村けんとのコントに多数参加していた。
また同時期テレビ東京の『ヤンヤン歌うスタジオ』や日本テレビの『カックラキン大放送』等「歌える代わりにギャグに巻き込まれる番組」が複数あり(全員集合もその一つ)、そのほぼ全てに律儀に参加していた。
結果全テレビ局にギャグに関わった映像が現存している。これは沢田が妻子持ちになった80年代前半でも「アイドル」的な扱われ方をされていたことが原因かもしれない。


◆関連人物

  • 岸部一徳
沢田を「ファニーズ」に誘い、「ザ・タイガース」のリーダー、「PYG」・「井上堯之バンド」のベーシストとして若かりし頃の沢田を支えた旧友。ニックネームは「サリー」。
「タイガース」以外でも90年代にタイガースのギターだった森本太郎も一緒に「TEA FOR THREE」として組んだりしている(「みんなのうた」に『あなたが見える』を提供)。
また「タイガース」後期補充メンバーとしてデビューしたのが弟の岸部四郎(2020年他界)で、2012年の武道館・2013年の東京ドームでは車椅子状態でゲスト出演している。

  • 内田裕也
ファニーズ時の沢田と知り合い、彼やザ・タイガースのメジャーデビューの切っ掛けになった歌手。
1966年のビートルズ来日公演(沢田らも見に行った)では尾藤イサオやブルーコメッツと共に前座を務め*25、その時の楽曲『ウェルカム・ビートルズ』はブルーコメッツ版が現存する。
70年代樹木希林と結婚し沢田・久世光彦・ムッシュかまやつが立会人となった。また『7人の刑事』で共演したりした。沢田からも楽曲「きめてやる今夜」を贈られている。
また、内田の主演映画「水のないプール」にもヤクザ役でゲスト出演している。
パッと見だと単なるヘンな人にしか見えず、実際歌手としての功績も微妙であるが、審美眼や面倒見のよさは確かなものだったようで彼に見出されて大成した芸能人は多く、沢田自身も彼を強くリスペクトしている。
2019年3月に死去。

  • 加瀬邦彦
沢田の渡辺プロでの先輩で、バンド『ザ・ワイルドワンズ』のリーダー。その前は内田裕也と「ブルージーンズ」というバンドに在籍し、レコードデビュー前の「ザ・スパイダース」にも少しだけ在籍していた。
沢田がソロになった後、自身もバンドを解散していたので自ら彼のプロデューサー兼メイン作曲家となり(タイガース時にも楽曲提供している)、
「危険なふたり」・「追憶」・「TOKIO」等ヒット曲を制作した。ちなみに沢田関連の曲以外では『超電子バイオマン』主題歌の作曲等を制作している。
だが80年代に『ワイルドワンズ』を再結成し、それと前後して沢田のスタッフから離れるも曲提供はその後も続き、
2006年に『ワイルドワンズ』武道館ライブに沢田がゲスト出演し、2009年の内田裕也とのライブを経て大型コラボレーション企画『JULIE with THE WILD ONES』に繋がった。
そして2015年に他界した後、沢田はその年のライブで「新曲以外全て加瀬の曲」というセットリストを披露し彼を追悼した(類似例では安井かずみ死後の『ZU ZU Songs』がある)。

  • 萩原健一
タイガースへの対抗馬として「ザ・スパイダース」のリーダー田辺昭知(現田辺エージェンシー社長)にスカウトされた「ザ・テンプターズ」のボーカルとして沢田のライバルとなり、後に個性派俳優となった「ショーケン」。
PYGで一緒に活動していたこともあったが、テンプターズ~PYG期で「アイドル扱いされる事」・「事務所に使われる事」に嫌気がさし、結局監督志願から俳優メインへとシフトした。
様々な容疑で何度も逮捕歴があり、その人生は自ら「ジェットコースターだった」と語るほど。
その後沢田とは『太陽にほえろ!』・映画『カポネ大いに泣く』で共演し(後者では独身時代の田中裕子がヒロイン役)、萩原のバックを務めていたミュージシャンがCO-CoLOにシフトしたりと微妙に縁がある。
萩原視点で見た沢田は「上からの言う事を何でも聞くなんて俺は嫌だけど、他人に導かれる事によって映える才能なんだろうな。でもバンドとの一体度ならこっちの方が上だぜ!」(以上自伝からの意訳)という感じ。
また沢田やザ・スパイダースの面々と違い、GS時代を半ば「黒歴史」・「もう振り返らなくてもいい過去」としており、再結成はおろか晩年に入るまでテンプターズ時代の楽曲を振り返る事も少な目だった。
2019年3月に他界。

  • 早川タケジ
沢田のソロ活動初期から2019年頃までの長きに渡って彼の衣装デザインを引き受けていたデザイナー。
沢田の30代の頃には割と「カッコいいがイッちゃってる」「ギミック付き」衣装を多く提供し、ある程度ライブイメージが落ち着いた中年以降では普通に近めな衣装を提供している。
だが2004年のライブ『CROQUEMADAME&HOTCAKES』にて、エリマキトカゲ着ぐるみ風衣装をデザインしたりしていた。

  • 久世光彦
ドラマプロデューサー兼作詞家兼作家。アニヲタ的にいうとマリがヱヴァ新劇場版Qで口ずさんでいた『ひとりじゃないの』(天地真理)の作詞者で、大山ドラに「浪曲ドラえもん」なんて曲を提供していた。
TBS社員時代内田裕也を通じて沢田と知り合い彼の熱烈なファンになる。それは『寺内貫太郎一家』での「ジュリーラブなおばあちゃん」に始まり、
『悪魔のようなあいつ』では全力を尽くして主演ドラマを制作し、作詞家としても「小谷夏」名義で「コバルトの季節の中に」を提供。
沢田らがいた公開の場所で浮気*26をばらされても縁は続き(沢田はその時ばらした相手に怒っていたという)、SPドラマ『源氏物語』で沢田を源氏役として映えさせた。
90年代には彼の妻田中裕子をドラマでよく使う様になり、2001年~2005年には沢田主演の『音楽劇』を手掛け、「今の彼」にあう「人情もの」や「大人の愛」を描いた。
その愛はたとえ沢田がバカ殿コスを舞台でしても揺るがず、2006年3月に他界した際も、最後に沢田夫妻と会った日の夜に自宅で急死したという。

ドリフターズのメンバーと、その後輩で元ドリフの付き人。
沢田と志村とは70年代からの付き合いで、2003年には久世の音楽劇でも共演、互いに互いのキャラ衣装をまねるなんてギャグも見せた。そして2020年に志村が急逝した後、彼が出演する予定だった映画『キネマの神様』で沢田が代役を務めた。
また2001年に『ふたりのビッグショー』でも共演しており、その際志村がかつて田代まさしと歌ったコントソング『爺様と婆様のセレナーデ』をカバーしていた。
すわは2004年以降『音楽劇』の常連になっており、2022年・2023年にはなんと沢田のライブツアー・シングルにも音楽劇で共演した山崎イサオ*27と共にコーラスとして参加している。

  • 柴山和彦
『オールウェイズ』時代から沢田のバックを務め、「CO-CoLO」時期を除いて常に彼と共にライブ活動をしているギタリスト。
2018年~2021年には何とライブツアーの演奏担当が彼一人きりとなり、沢田と2人っきりで全国を回っていた。2022年以降は再び普通のバンド編成に戻ったが。

◆余談

安易なベストアルバム制作などを規制している節があり、現在発売されているベスト盤はいずれも過去レコード会社在籍時に作られたもの。
また「ザ・タイガース」「PYG」はそれぞれ別にベスト盤が発売されているため、最低でも3枚CDを買わないと曲を集められないのでちょっと大変である。

「毎年ライブツアーを行う」ことに強くこだわっており、かつて『戦場のメリークリスマス』(1983)で坂本龍一が演じた役のオファーが来た時、ツアーのスケジュールが既に確定していたため断ったという逸話がある。

「PYG」時代のアルバム収録曲「戻れない道」は、後にコントライブ・番組「潜在意色」のテーマソングとして使われた。

歌手兼女優の石野真子(特捜戦隊デカレンジャーの白鳥スワン役等)は、アイドル時代の1979年に「ジュリーがライバル」なる曲を発表。
そして歌番組で沢田がいる時に「ジュリーがライバル」が流れると、沢田の嫌そうな顔がアップにされるなんて演出が入り、なんと紅白歌合戦でも行われた
また石野の妹であるいしのようこは2014・2016・2017年の音楽劇で沢田と共演している。

ライブ大好きではあるのだが、2004年・2018年には「客の入りが悪すぎた」とライブをドタキャンしており、
後者ではそのドタキャン会場がさいたまスーパーアリーナだったためワイドショーでも騒がれ、やむなくかテレビ取材に応じ謝罪した。
ちなみにこの会見を見たファンの反応が神奈月にモノマネされている。
そして5年後の2023年、6月25日に行う75歳バースデーライブの開催場所として再びさいたまスーパーアリーナを選び、今度は無事ライブを完遂している。



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最終更新:2024年01月09日 22:33

*1 名前の由来は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」などに出演した女優のジュリー・アンドリュース。当時のグループサウンズの歌手はニックネームを名乗ることが多く、ザ・タイガースの他のメンバー達にも全員似たようなニックネームがある(内2人は単に名前をカタカナにしただけだが)。

*2 同名のジブリ楽曲とは別物

*3 現在でのライブハウス的役割を持っていた

*4 2003年のアルバム『明日は晴れる』で、そのチームの応援歌「六甲おろし」を「Rock 黄 Wind」としてカバーしている

*5 このときに補充要員として加入したのが、日本芸能界を代表する愛すべきダメ人間・岸部シローである。

*6 実は、これが何気に「武道館での解散ライブ」の史上初の例である。

*7 作詞は岸部一徳

*8 「ザ・ピーナッツ」はこの直前に引退していた

*9 『太陽を盗んだ男』監督の制作回

*10 栗本薫が原作と脚本・久世光彦が制作・内田裕也が沢田の兄貴分な犯人役を担当し、栗本・久世の腐女子的な感想文が残っている

*11 映画公開後に執筆された原作『蟻地獄』では「沢田似では?」という台詞が描かれている

*12 ちなみに1977年の『夜のヒットスタジオ』『トップスターショー 歌ある限り』では布施・森・沢田に他事務所の同世代歌手五木ひろしも合わせ「ビッグ4」と称したコラボ企画が行われており、『夜のヒットスタジオ』での共演曲はDVDに収録・『トップスターショー』は未DVD化だがCSで再放送された事がある。

*13 2001~2005年は久世光彦、2007年からは元「劇団M.O.P.」主催のマキノノゾミが演出を担当

*14 なお2023年現在、この年と2021年のみ新曲発表が行われていない。

*15 だが新型コロナウィルスのパンデミックが始まった2020年のみ、感染拡大の危険性ゆえに止む無くコンサートツアーを自粛している。

*16 『宇宙戦艦ヤマト』OPや「ザ・ピーナッツ」の先生として名を馳せた有名作曲家

*17 だが版権的にややこしいものがあるのか、なぜかソロ期初期のライブアルバムは殆どCD化されていない。

*18 1983年に曲だけ差し替えたシングルとして発売し、「ACTシリーズ」でオリジナル版をセルフカバーしている

*19 デビュー初期に『6番目のユ・ウ・ウ・ツ』をシングルカップリングとしてカバーしていた

*20 堺正章・井上順がボーカルで、ファニーズもファンクラブに入っていた当時の人気バンドで、一部シングルでの衣装は後の「TOKIO」衣装に似ていた。メンバーだったムッシュかまやつも沢田に楽曲提供を行っている

*21 沢田も犯人役としてゲスト出演した

*22 後に『LOVE LOVE あいしてる』等でKinKi Kidsと深い接点が出来る。

*23 泉谷しげるのコンサートバンド

*24 1994年発売。ちなみにこの年の紅白ではジャニーズ系バンドのTOKIOが初出演している

*25 内田・尾藤の出番の後にドリフターズも登場していた

*26 ちなみにその相手は『七人の刑事』で沢田と共に被害者役を演じ後に久世の妻になった人、つまり久世は「自分の魅入られた人」と「自分の抱いた人」の死ぬ様をドラマにしたようなもんである。

*27 『シャボン玉ホリデー』等でザ・ピーナッツと共演した渡辺プロの「フォーメイツ」でデビューし、NHK『ステージ101』のレギュラーグループ「ヤング101」後期参加者でもあった歌手兼俳優。沢田関連では昭和時代にも1977年のライブレコード「沢田研二リサイタル ハムレット・イン・ジュリー」にて共演者としてクレジットされていた。