湾岸戦争

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湾岸戦争(Gulf War)

期間:1990年8月2日~1991年2月28日


  • 主要交戦国
クウェート、アメリカイギリス、フランス、サウジアラビア、エジプトなど

VS

イラク


湾岸戦争とはイラクがクウェートに侵攻したのをキッカケに国際連合が多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事に始まった戦争。
別名「第一次湾岸戦争」とも呼ばれる。


当時のメディアがミサイル爆撃の様子をゲーム画面のように表示したため、それにあやかって『テレビゲーム戦争』や『ニンテンドー戦争』とも呼ばれていた。 
これは当時の湾岸戦争に対する代表的なイメージだが、実はに過ぎない。

というのも多国籍軍航空部隊は1ヶ月もの間、イラク南部からクウェート全域で防衛していたイラク軍を徹底的に爆撃したが、無力化はできていなかった。
その為、大規模な地上戦に移行せざるを得なかったのだ。
つまり「戦争はゲームのようなもの」という価値観を米軍はなんとかして入れ込もうと必死だったのだ。
これはベトナム戦争で報道管制を殆どと言って良いほど敷かなかった為、反戦運動を引き起こして国政が混乱した事による反省と対策である。
(当然だが当時の将官・将兵はベトナム戦争経験者が多い)



戦争の発端

1980年のイラクによる宣戦布告開始から、1988年のイラン敗北まで続いた「イラン・イラク戦争」。
これが終結した2年後の1990年に、この「湾岸戦争」は起きた。
時はバブル経済の真っ最中であり、バブルで浮かれていた日本人にも激震が走った。

イラクは先の「イラン・イラク戦争」中、アメリカ合衆国や旧ソビエト連邦(現ロシア)等の大国や、ペルシア湾岸のアラブ諸国に援助されて、軍事力は中東では最大規模であったが、同時に一連の戦争で600億ドルの借金を抱える事になり、戦災によって経済の回復も行き詰っていた。

長期間の戦争で山積みになった債務を帳消しにするには、原油輸出による外貨の獲得ぐらいしか道が残されていなかった。

しかしこの時期は原油価格が低値となっており、一度は原油価格のアップをOPECに要望したが受け入れられずスルーされた。
一方でサウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦(以下UAE)等の諸国はOPECの割当量を超えた石油の増産を行なっていた。
サウジアラビアはOPECへの発言力も大きい手前、表面的には指示に従っていた。……が、王族であるサウード家は密かに私有物として原油を採掘し、それを他国で売り買いしていた。
クウェートとUAEはOPECを完全に度外視する量の原油を採掘し、原油価格は値崩れを起こし、価格は大きく下がってしまう。

それでイラク側が怒った事が、戦争の原因の一つになってしまう。

戦争前夜


1990年7月17日
イラク革命記念日での演説においてサダム・フセイン大統領はこう言った

一部のアラブ諸国が世界の原油価格を下落させる事によって、イラクを"毒の短剣"で背後から突き刺そうとしている。 彼らが言葉で警告しても分からないのならば、何らかの形で経済制裁を加えるであろう。

この発言は遠回しにクウェートとアラブ諸国を非難している。

これを受けたアラブ諸国は石油増産の縮小を行ったが、一方のクウェートはいかなる行動も起こさず、悪びれた様子もなかった。
その為、イラクは余計に怒りのボルテージを上げさせた。

1990年7月18日
イラクのターリク・アズィーズ外相は

クウェートとUAEがOPECの生産協定を破り、生産枠を越えて石油を生産した事によって、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被った
と主張。
そして「クウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるルマイラ油田から石油を盗掘している」「盗掘が80年代から続いており、イラクは24億ドルもの損害がある」という趣旨を述べ、「クウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設している」とも非難する。

クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田についてはイラクも領有権を主張しており、以前から幾度か帰属を巡って対立してきた歴史があった。
これらイラク側の批判に対してクウェートのジャービル首長は

単なる金目当ての脅しである

と勝手に判断し、イラクの主張を完全否定すると共に軍を総動員した。
一方のクウェート国内では石油利益の配分を巡って対立が激化しており、かつてクウェート政府がイラクに無償で支援した100億ドルを返済させる暴動が起こっていた。
この暴動に対応する為、クウェートはイラクにドルの返済を働きかけたが、当時のイラクには返せる資金はなく、逆にさらなる資金額を要求された為、両者の対立が本格化する。

フセイン大統領の怒りは収まる事なく、怒りの矛先は事件の引き金であるクウェートに向けられていた。
さらにはこのクウェートの背後にはアメリカやイスラエルが暗躍している……という陰謀論にも取りつかれていた。

この事態を受けて周辺のアラブ諸国が問題解決の為に仲介に乗り出し、サウジアラビア*1のサウド・アル・ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問する。
時を同じくしてアラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れ、ジャービル首長を説得した。

クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉する事に合意したと発表し、軍の動員も解除しめでたし、めでたし…

となるのかと思いきや、これらの外交交渉はイラクの軍事的脅威を恐れるクウェートが、サウジアラビアやアラブ連盟に呼びかけていた裏工作、つまり陰謀であった為、むろんイラク側はそれらがでっち上げである事は知らない。

エジプトのムバラク大統領もフセイン大統領と直接電話で会談し、慎重な対応をするよう注意喚起を促し、イラクのアズィーズ外相もエジプトを訪問した。


だが一方の『イラク国営通信』は

クウェートは湾岸への外国勢力の侵入に手を染めている
とイラク政府の報道官の談話を発表した。

イラクの国営紙である『ジュムフーリーヤ』も
クウェート側もイラクの油田盗掘を未だに止めず
とイラクによるクウェートへの非難は収まらなかった。

またムバラク大統領もイラクのフセイン大統領と電話で会談し、慎重な対応をするように説いた後にイラクのアズィーズ外相もエジプトを訪問した。

これらの事態を重く見たエジプトのムバラク大統領は、「問題解決の為にイラクとクウェートの両国を訪問する必要がある」と意思表明し、「アラブ外相会議の開催を求める一方で、当事者である両国に対しては互いの非難や誹謗中傷を今後の関係の為に控えるように」とムバラクは厳重に注意をする。

だがフセイン大統領はムバラクの忠告を堂々と無視し、クウェートの国境に3万人の兵を集めて本格的な武力介入に出る。

同日にエジプトのムバラク大統領は、前に忠告を無視されたのにもかかわらず不屈の精神で交渉を諦めずに
イラクを再訪問し、フセイン大統領に対してクウェートに対する軍事行動を起こさないように厳しく呼びかけ
イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成り立つ『四カ国会議』を提案する。

ムバラクの熱い思いによって心を動かされたフセイン大統領はクウェート側への要求として
  • 石油を盗掘した分(24億ドル)の支払い
  • 国境画定に向けた直接交渉
を求め、これが受け入れられなければイラクは軍事的な制裁を取ると述べた。

ムバラク大統領の提案した四カ国会議はクウェートにとって有利なものであった為、イラクが孤立する事を恐れたフセイン大統領は 『四カ国会議』を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。

アメリカの駐イラク特命全権大使であったエイプリル・グラスピーはイラク側の裏工作と意図が読み取れずフセイン大統領と会談を行った後、そのまま会議中にフセインの言ったことを鵜呑みにし

あなた方の国境問題(アラブ紛争やクウェート問題を指して)に介入する気はございません

と問題に対する不介入を示したあと(要するにアメリカ側にとって中東問題は他人事であり国の問題は自分たちで解決して下さいという意味)
イラク軍を本格的に動かす要因を作ってしまうのだが、それに気付いたアメリカ軍によって阻止される。詳しい経緯は不明だが彼女は事後に消息を絶つ。

1990年7月27日
翌日、イラク軍は国境の北に共和国防衛隊を集結。 戦車部隊は砲門を南側へ向け砲撃体制の準備していた。
まるで狂犬が人間を威嚇するかのように。

アメリカ側はこれを受けて周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考えるのみで全く相手にしなかった。

騒動のゴタゴタに巻き込まれたOPEC側はフセインを納得させる為に原油価格をそれまでの18ドル→21ドルに引き上げたが
フセイン大統領は既に交渉による解決に関心を示していなかった。

問題児であるクウェート側は金で物事を解決できると考えており防衛意識は皆無であった。

1990年7月31日
聖地マッカの玄関口であるジッダで開かれた両国会談ではイラク側代表のイッザト・イブラーヒーム革命指導評議会副議長が、これまでの要求に加えて
イラク側が長年領有権を主張していた「ワルパ島とブービヤーン島をイラクに割譲すべきである。」という要求を助長させることになる。

当のクウェート側のサアド首相はイラクの要求を拒否すると共に「話し合いの継続を希望する」とのみ答えた。
イラクは次回協議をバグダッドで開くことを予定し、会議の進展はなく終了した。

1990年8月1日
両国を仲介していたエジプトのムバラク大統領とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル議長は、
まずイラクのクウェート侵攻はあり得ないであろう。」とクウェート側に明言し自国のテレビ局で断言する。

この段階ではイラクとクウェートの武力衝突は誰しもが避けられると思っていたのだが・・・

ムバラク大統領の手助けと国民の心配も虚しく状況はより悪化する事になる


イラクのクウェート侵攻


1990年8月2日
イラクの共和国防衛隊の戦車350両を中心とする機甲師団10万人はクウェートに侵攻を開始する。
クウェート軍の50倍の兵力による奇襲によって午前8時にクウェート全土を占拠した。

『革命評議会』は
我々のクウェート政権が倒されてしまった・・・」と敗北宣言。


翌日の夕方にはイラク国営放送が、

アラー首班を中心とする政府閣僚のほぼ全員がクウェート人には知られていないが、殆どイラクの軍人であった

と報道し、クウェート側は「自分たちは(イラクの)フセイン政権の手の掌で踊らされていた操り人形に過ぎなかったのだ」と落胆する。
全てはフセインが仕組んだ計画でありクウェート侵攻は完全な予定調和だったのである。

事実を知ったクウェートのジャービル首長は我を失い、サウジアラビアへ亡命し消息を絶つ。しかし異父弟のシャイフ・ファハドは逃亡に失敗し、少数の警備隊ともに宮殿内での銃撃戦により死亡する。

フセインは結果として偽りの友情を培ってきたムバラク大統領とパレスチナのアラファート議長を完全に罠にハメる事に成功したのである。


イラク軍にはこの侵攻計画を事前に知らせておらず、参謀総長や国防大臣はクウェート侵攻をテレビなどのメディアを通してある程度は察知していたものの、意識は完全に蚊帳の外であった。

イラク地上軍の内実

湾岸戦争で、そしてイラク戦争で結果的に惨敗したイラク軍を多くの人は「雑魚」だと思うかも知れない。
しかし、注意しなければならない。当時のイラク軍は世界第3位とも言われる程の軍を整備していた。
湾岸戦争へ突入する前にこのイラク軍の地上軍のことを少し知っておきたい。

まずイラク地上軍は大きく2つに分かれる。陸軍と共和国親衛隊だ。
陸軍は数が多いが兵器の質に劣り、共和国親衛隊は数が少ないが兵器の質で勝る。
数が少ないと言ってもクウェート侵攻直前には
  • 総兵力15万人、8個師団
  • 戦車1100両
  • 装甲車700両
  • 野砲800門
を保有する大陸軍と化していた。
大雑把な比較だが、同時期の陸上自衛隊以上の規模を有していた。共和国親衛隊だけで。

配備される兵器においては共和国親衛隊と陸軍で全く違う。
戦車…共和国親衛隊:T-72/陸軍:T-55orT-62
装甲車…共和国親衛隊:BMP/陸軍:APC*2
野砲…共和国親衛隊:自走砲/陸軍:牽引砲

共和国親衛隊にはSA-13ゴーファー自走対空ミサイル、ZSU-23-4シルカ対空自走砲といった対空兵器もあり
両者の協同による機関砲とミサイルの弾幕は多国籍軍の空爆をできる限り妨害した。
当然彼らは士気も高く、次々と投降する陸軍とは別格の戦いぶりを見せつけた。というか湾岸戦争の地上戦は彼らを撃破することが目標だった。

そしてこの共和国親衛隊と合わさったイラク地上軍は
  • 63個師団、110万人
  • 戦車5800両
  • 装甲車1万2000両
の規模となる。
何故、多国籍軍(大半はアメリカだが)が大規模な軍勢を中東に集結させる必要があったのか、分かるだろう。

多国籍軍


SS

↑湾岸戦争の多国籍軍に参加した国の地図。米英などの旧西側諸国だけでなく、当時アメリカと対立していたシリアなどまでが参加していることが解る。

イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会の会議が開かれ、無条件撤退を求める安保理決議を採択。

1990年8月6日
全加盟国に対して イラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議を行った。

石油の価格は一時ながら高まったものの、イラクにとって(経済制裁を受けていた故)何のメリットも無かった。

1990月8月7日
アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュ(後のイラク戦争を起こしたブッシュJr.の実親)がサウジアラビアを武力で威圧する。
そしてアメリカ軍の駐留を承諾しサウジアラビアへの派遣を決定する。

今となっては信じられないが、かつてアメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており
サウジアラビアも国内に聖地メッカを抱え、外国人に対して排他的な姿勢であるため
異教徒に軍の進駐を認めることはイスラム国家にとってにわかに信じがたい出来事であった。

サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラク側と対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事に怯えていた。

バーレーン、カタール、オマーン、UAEといった湾岸産油国もアメリカに同調していった。もはやアメリカが神であり唯一の救世主であった。

アメリカは国連軍の編制は法律の関係で出来ないため有志を募るという形での多国籍軍での攻撃を決め、これにイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国がこれに続いていく。

エジプトなどのアラブ諸国もアラブ合同軍を結成し、これに参加した。

アメリカと敵対関係にあったシリア側とも友好関係を結び、参戦を決定する。実態はレバノン内戦に関する取引である。

詳しい意図は不明だがアメリカはバーレーンに司令部を置いた。多国籍軍の50万人がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始する。

多国籍軍は全く関係のない国同士や敵国も混ざり合っていたのでリアルキン肉マン状態となっていた。

日本側はあらかじめ自国の法律で戦争に参加しないと決めていたため、軍に対して総計135億ドルの援助を施していたわけだが、
そのため参戦した各国の代表たちから「金だけ出して人を出さず」、「似非国際貢献」、「一国の平和主義」等と非難される事になる。
135億ドルという数字も、石油に依存している国としては出費している金額自体は少ない方である

イラクの様子


1990年8月8日
国連の決議が却下される。さらに態度を硬化させギクシャクとした関係になる。

イラクは「クウェート政府が母なるイラクへの帰属を求めた。」として、クウェートをイラク第19番目の県"カーズィマ県"としての併合を宣言。


1990年8月10日
アラブ側は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとした。しかし、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったため
取りあえずイラクを非難しようぜという下らないものになった。


1990年8月12日
イラクは「イスラエルはパレスチナ侵略を容認しており、今回のクウェート併合を非難するのは矛盾しているではないか!」と怒るが、当のイスラエル側に聞く耳は持ってもらえなかった。

後に「イスラエル国のパレスチナ退去などを条件に撤退する」と発表したがそれも全く意味のない事であった。

ナイラ証言

1990年10月10日、クウェート人難民のナイラと称する少女が「イラク軍はクウェートの病院からの略奪を行い、多くの新生児を銃剣で刺すなどして虐殺した」と証言。
この証言はアメリカ全土にテレビ放映され、また議員らも彼女の証言を引用するなどしてイラク軍の悪虐ぶりを知らしめ、アメリカ国民は湾岸戦争開戦へ前のめりになってゆく。

しかし後にこの証言は全くのウソだと判明。しかもナイラはクウェート政府高官の娘であり、挙句の果てにはクウェートに住んでいなかった事が暴露される。ちなみに「新生児を銃剣で刺す殺すなどして虐殺」というのは第一次世界大戦の頃から使われている定番のプロパガンダである。


人間の盾


1990年11月28日
イラクはクウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にするのと同時に国際社会に発表する。
{この戦争とは本来は無関係だった日本、ドイツ、アメリカ、イギリスなどの民間人を、自国の軍事施設や政府施設などに人間の盾として監禁する、というものだった。
}
この卑劣な行為は世界中からの批判を浴びる事となり大バッシングを受ける。
これを受けた後にイラク政府はお茶を濁し、すぐさま人質の解放を行った。その後に多国籍軍との開戦直前の12月頃に全員が解放された。

しかし、あいも変わらず懲りないイラクは敵国であるクウェートの占領を続けていた。国連の度重なる撤退命令を無視したため年末の11月29日に国連安保理を開催し、
年始の91年1月15日を撤退期限とした。後に対イラク武力行使容認決議を採択する。


砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)


1991年1月17日
年始早々に多国籍軍はイラクへの爆撃を開始。宣戦布告は行われなかった。
CNN放送は空襲の様子を実況中継し、世界中に事実を知らせるため報道を命がけでリポートする。
イラク軍は多国籍軍の圧倒的な戦力・優勢を察知して、航空兵力の損失を恐れて空中戦を控える体制に入る。
自国の軍機をイランなどの周辺国に強制的に退避させたり、イラク航空の旅客機も同じように周辺国に退避させるという完全に逃げの姿勢であった。

……この作戦の効果だが、後の分析ではこのような爆撃ではイラク軍野戦部隊をほとんど撃破できなかったと判明している。(空軍、海軍はほぼ壊滅した)
総司令官のシュワルツコフは「地上戦の前までにクウェート戦域のイラク地上軍を爆撃によって半減しておく」と明言していたが、
実際には戦車は40%、装甲車は30%、野砲は47%、兵員は34%しか撃破できなかった。目標は結局達成できず。
しかもイラクのエリート部隊、共和国親衛隊の戦車の80%は生き残っていた。
攻撃が成功しなかった理由は、イラク軍の対空砲火と掩体による防護が徹底していたからだ。
結局、圧倒的な航空兵力が向けられても、それの運用と、運用による被害を妨げることが出来れば案外どうにかなるのだ。
代表的な航空機も紹介しよう。

F-117

砂漠の嵐作戦を、そして湾岸戦争の先鋒を務めた。レーザー誘導爆弾を投下し防空組織の中枢を破壊した。初日の任務の平均命中率は57%。
唯一のステルス爆撃機だったためイラク中心部への精密爆撃という大任を任された。ただし夜間限定。
通信網は破壊できたが、対空兵器、ミサイルには手を付けていない。この膨大な兵器は空軍を最後まで苦しめることになる。

トマホーク巡航ミサイル

注目された新兵器であり、同時にイラク中心部の昼間爆撃に使えた唯一の兵器だった。
指揮統制施設や電力施設を攻撃した。目標にはバース党本部、大統領官邸も割り振られている。

B-52

ベトナム戦争の絨毯爆撃が有名だがここではクラスター爆弾で戦車をピンポイント攻撃しろという無茶な任務を授かる。
クラスター爆弾の火力は戦車だとエンジンにでも当たらない限り無力化できないし、イラク軍が暢気に戦車を地表に露出させる訳がない。
9日間の任務では連日平均35機のB-52が約1600発の爆弾を投下したが、戦果は1日当たり6~8両だった(しかも大半は戦車ではない)。
ただしイラク兵に対する心理的影響は絶大だったようでB-52の爆撃を恐れて投降した将校もいる。彼のいた所にB-52は爆撃しなかったのだが。

F-111

地上攻撃という点で最も活躍したのはA-10ではない。F-111 アードバーグである。

ベトナム戦争でも優秀だったこの機体は、湾岸戦争では当初は戦略爆撃に使われていた。
しかし、レーザー誘導爆弾(実は先程のB-52のクラスター爆弾より安い)を駆使することで、
掩体内に隠れている戦車と夜の砂漠の温度差を利用してFLIR(前方監視赤外線映像装置)のディスプレイから戦車を発見するというタンクプリンキング戦法が使えることが判明し、戦車狩りに移行した。
このタンクプリンキングの効果は絶大で、今まで安全な戦車の中で寝ていた共和国親衛隊の兵士が、戦車から離れた塹壕で寝るようになったと言われている。
なお戦争中に使用されたレーザー誘導爆弾の6割をF-111が投下した。

F-15E

当時最新鋭機ということもあり、数は多くなかったがF-111のような夜間爆撃に優れており、以降の戦争ではF-111の任務を引き継いでいる。

A-10

A-10の名を轟かせた戦争は湾岸戦争だが、イラク軍のエリート部隊である共和国親衛隊の、当時世界一と言っても過言ではない濃密な防空網には撃墜が相次いだ。
F-111のタンクプリンキングに刺激された上層部が、F-111では出撃できない昼間の、それも共和国親衛隊の爆撃に駆り出したのだが、A-10は鈍足で、装甲も大型ミサイルには十分ではなかった。
実際、2月15日の任務では6機出撃したA-10の内、2機撃墜、1機大破と散々な目に遭ったのだ。以降はイラク陸軍歩兵師団への掃討に戻った。

他にも様々な航空機が参加している。また、無人航空機による大編隊をイラクに侵入させ、それを防空網がキャッチして攻撃している間を狙って
ハーム対電波源ミサイルを発射し、無人機に対してミサイルを誘導するレーダーの電波を狙って防空網を殲滅することも行われた。

ここからイラク軍野戦部隊の破壊を狙うことになるのだが、地上攻撃はなかなか進まなかった。当時の上層部にとって予想外の事態が起きたからだ。

諸国への爆撃


フセイン大統領は
アラブ対その支持者(キリスト教などの異教徒)の構図を築こう」という異常な提案を出す。
1月18日からイスラエルへ向けてスカッドミサイル43基を発射する。ミサイルは着弾しイスラエル最大の都市テルアビブで大規模な死傷者を出す。
このスカッドミサイル(正確には発射台)を狩るために数多くの航空機が割り当てられ、中東にはパトリオット防空システムも緊急配備された。


イスラエルは開戦直前にモサッドなどからフセインが攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へSOS警報を出していた。
42日間で18回39発のミサイル攻撃が直撃する。ミサイル空襲でパニックになり逃げ惑う人々たち。あっという間に町は焼野原となった。

大まかな内訳としては10回の攻撃で

  • 約226名が負傷
  • 2名がミサイルの直撃で即死
  • 5名がミサイル警報によるショック死
  • 7名が対化学攻撃用ガスマスクの取り扱いミスで死亡
という洒落にならない数値の犠牲者を出す。

この件によってイスラエルはイラクに対して更に不満や反発を抱くことになる。
フセイン自体はイラクの挑発によってイスラエルが参加し、
「多国籍軍VSイラク」である戦争を「キリスト教圏VSイスラム教圏」という異教徒間戦争に変えようという狙いがあったわけだが、
それを見越していたアメリカや国連によって阻止され計画は水の泡となった。


イスラエルの異教徒間戦争への誘致に失敗したイラクは次のプランへと移行する。

次の標的はサウジアラビアとバーレーン国でありイスラエルと同規模のミサイルを放ち、ここでも大勢の犠牲者を出す。

異教徒に加担した裏切り者を制裁することでアラブ世界の結束を図るために。

この思惑は思うように行かず他国が持っているイラクに対する不信感や反発心を余計に強めてしまったが。

ハフジの戦い

実は砂漠の剣作戦が発動される前にイラク軍はサウジアラビア領のハフジへ侵攻していた。
制空権はとられているのに何故野戦部隊は移動できたのか?」という問いが生まれるだろうが、湾岸戦争に投入された偵察機は42機しかなかった。
先程のスカッド狩りの支援に投入されているだろうと考えると、スカスカな偵察を回避してイラク軍が大規模な移動を出来てもおかしくない。

この時のためにイラク軍は戦車603両、装甲車751両、野砲216門、兵員36500人(定員)を投入した。
なお、ハフジの戦いとは言うが、イラク軍は海兵隊の兵站基地キブリト、ミシャブ港まで侵攻を狙っていたと言われる。ミシャブ港はハフジから50kmしか離れていない。
戦果としてフセインは米軍捕虜を手に入れて、人間の盾に使う気だったとイラク軍情報部長は証言している。

なおこの際にキブリト付近の監視ポイントを警備していた海兵隊は戦車を持っておらず、LAV-25シリーズを装備していた。
LAV-ATから放たれるTOW対戦車ミサイルが非常に効果的だったが、初の夜間戦闘による同士討ちや、援護にきたA-10がマーベリックをLAV-25に打ち込むなど混乱も多かった。
この偵察隊は奮戦し戦線の突破を防いだが、ハフジは占領され紆余曲折*3の末にアラブ合同軍が奪還した。

砂漠の剣作戦(Operation Desert Sabre)


1991年2月24日
遂に空爆が停止命令を下される。この間に戦力を高めて、兵力78万人、作戦機2780機、艦艇180隻が集結し、WW2以降最大規模の軍となった多国籍軍は地上戦"砂漠の剣作戦"に突入。
前回の"砂漠の嵐作戦"とは名前が似ているが何の関連もなく、むしろそれに対するアンチテーゼであった。クウェートを包囲するかのようにイラク領に侵攻する。
砂漠の嵐作戦が地上部隊の撃破に満足した結果を残せなかったため、ここからは大規模戦闘がほぼ常時繰り広げられることになった。
なお、この砂漠の剣作戦で多国籍軍と対峙したのは共和国親衛隊である。

ここでは陸上兵器とヘリコプターについて紹介する。

M1A1

強靱な装甲と劣化ウラン弾という最強の火力と最強の盾を備えた最強の戦車。
上部装甲にAH-64のヘルファイアが命中しても撃破されない程固いし、T-72を一撃で葬れた。

ただし車体の背後を狙われたM1A1がT-72に撃破された事例があった。
装填装置は手動だが熟練の兵士なら数秒で装填を終えてしまえるので当時の自動装填装置では敵わないこともあった。
ガスタービン式エンジンなので燃費が酷く悪く、スピーディに進んだ地上戦でも燃料補給を強いられた。

ちなみに作戦に参加した戦車の名に「マッド・マックス」があり車長は「ハーバート・マクマスター」大尉だった。
後のトランプ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名される漢である。


M2/M3ブラッドレー

歩兵陣地の掃討作戦、偵察に大いに貢献した。ちなみに歩兵陣地の掃討作戦は塹壕までブラッドレーの小隊で進撃し、
援護された装甲ブルドーザーが塹壕を歩兵ごと埋めるというものである。後にその非人道性で非難された。
当然装甲は戦車に比べて薄いためどこの師団でもM1A1より撃破された車両が多かった。


AH-64 アパッチ

掃討作戦で有効性を示し、戦争中にイラク軍装甲車両を800両破壊した戦闘ヘリ。F-111のようにFLIRを利用して目標を補足している。


多国籍軍との戦闘により、イラク側は苦戦を強いられ、このまま抵抗しても多国籍軍から報復され国ごと消し飛ばされかねないため、
これ以上の戦いが無意味だと判断したのか地上戦開始から100時間後にイラク軍は大量の捕虜を出しながら撤退する。
どちらにせよイラクは四方八方を敵に囲まれ、最初から勝機など見えてなかったのだ。
イラク側の勝機が見えないような戦闘計画を練ったからでもあるが。

1991年2月27日
アメリカのブッシュ大統領が停戦を発表する。
フセイン大統領は事実上の敗戦を認め半年間に渡る過酷な戦いは終わりを告げた。

この戦争で使用された兵器はF-15E、トマホーク、劣化ウラン弾、ステルス爆撃機、クラスター爆弾、パトリオット・ミサイルなど多く存在し、
いずれもアメリカが開発した新兵器であり殺傷能力の高い兵器ばかりであった。

1968年に定めたNPT(核拡散防止条約)を余裕でガン無視しているレベルである。アメリカとは間違えても戦争をしてはいけない

1991年3月3日
暫定停戦協定が結ばれ、一見すると戦争が終結したかのように思えたのだが・・・

なおこの戦争によって多くの犠牲者を出し、被害も尋常ではなかったため怒り狂ったクウェート側はイラクに賠償金を求めた。
その額は301億5000万ドル(2兆6000億円)に及び1994年頃から支払いを始め、イラクとクウェートはこれを機に国交を断絶する。


停戦と新たなる野望


3月3日にイラクの代表が暫定休戦協定を受け入れ、イラクは敗戦を認めたと同時に停戦していたのだが
イラク軍の主力の多くは温存されており、この温存兵器が、後の懸案事項となった。

終戦直後にやけを起こした南部シーア派と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしていたが

当のフセイン大統領は
どうせ他国は平和になったと勘違いしているだろうし、アメリカなどが介入する余地はないだろう
と思っており、密かに温存していた軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数を殺害する。

フセイン、あんたも懲りないねぇ・・・

1991年4月3日
国連でクウェート侵攻の反省点から
  • 「クウェートへの賠償」
  • 「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」
  • 「国境の尊重」
  • 「抑留者の帰還」
をスローガンとする安保理決議が定められる。

1991年4月6日
イラクが表面上だけながらも停戦を受諾し、正式に停戦合意をする。 翌年の4月11日に発効となる。しかしイラクは新たなる計画を立てていた・・・
話は停戦から4年後の1995年に続く

1995年4月4日
停戦からちょうど4年の月日が経過していた。
安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたものの、イラク側は全面解除以外に受け入れられないと拒否。
数年前に停戦をしたのにもかかわらず、まだ戦争する気はあったようでありフセインは戦争を起こしてもおかしくない戦闘姿勢であった。

核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察も拒否した事により、長期間にわたる経済制裁を受ける事となる。
だがイラクは数年前の「湾岸戦争」に対して遺恨が残っており、それは8年後のイラク戦争まで持ち越されることになる。

中東のあちこちでは弾圧や差別を受けてきた過激な一派が頭角を現すようになり、暴動を起こすようになったため平和とは程遠い情勢であった。宗教観での対立や紛争は更に激動化する。

なおアルカイーダと呼ばれる過激派グループが現れたのもこの時期であり後に全米を恐怖に陥れた9・11テロを引き起こす事になる。
ただしリーダーであるウサマ・ビンラディン氏はサウジアラビアの出身であり反イスラム勢力でありイラン・イラクとは敵対している。彼は後にサウジアラビアの国籍を剥奪され、本籍をアフガニスタンへ移す事になる。

元多国籍軍だったシリアも上記の反イスラム主義であるアルカイーダと利害が一致するため国連から脱退し、寝返って過激派グループに所属した。
停戦とは言いつつも中東の人々から完全に憎しみの心は消えることは無かった。

戦後


  • イラク
フセイン大統領は厚かましくも懲りずに戦争をしようとする。クウェート側とは例の件で絶交したため次の標的はイランとアメリカになる。

  • イラン
隣国のイラクとの関係は更に悪化する。治安も以前より悪化し、アメリカに対してより反米的な姿勢になる。

  • クウェート
当初は援助をしていた日本を煙たがっていたが、後に考え方を改め直す。イラク側に高額な賠償金の支払いを命じ、イラクとは国交を絶った。
また前述の「ナイラ証言」がクウェート政府とアメリカの広告会社のでっち上げたニセ証言(当のナイラと言う少女は在米クウェート大使の娘で、新生児虐殺に関しては完全な嘘)
ということが戦後の詳しい調査で発覚し、プロパガンダでアメリカ国民を戦争に引き込んだことで批難を浴びた。

  • パレスチナ解放機構(PLO)
フセインを事実上支持してしまうという最悪手を打ったアラファトは、イラク敗戦で周辺諸国からハブられ苦境に陥る。
資金的にも政治的にも行き詰まったPLOは、それまでの対イスラエル闘争路線を修正せざるを得なくなった。

  • アメリカ
戦争には勝ったが、イランやイラクから余計に恨みを買ってしまう。中途半端にイラク軍の戦力を残してしまったために中東の混乱は収まらず
最終的には二度目のイラク戦争で今度こそフセインの息の根を止めたのだが、今度は戦後処理を誤り泥沼の内戦状態を生み出してしまう*4
この問題を解決するまでに20年という月日を費やし、長きに渡る確執が続く。また日本と同様にバブル崩壊の煽りを受け景気は悪化する。ここから本格的な暗黒時代の始まりでもあるのだが日本と同様にバブルの余波が残っていたためアメリカ国民は残り火で浮かれていた。

  • 日本
湾岸戦争の終わりとともにバブルが崩壊し暗黒時代へと突入し、湾岸戦争の影響で石油価格が高騰するなど暗い要素は多かったが、景気の問題はまだそこまで深刻ではなかった。
バブルの余波もあり世相も明るかった。停戦後にペルシャ湾へ海外自衛隊を派遣。慇懃無礼な態度をする多国籍軍に対して不満があった鶴見俊輔や鈴木正文らが反戦デモを結成した。

だが軍事面・外交面では戦後有数の転換点となった。クウェートが一年後に出した感謝広告に、日本の名前はなかったのである。
「カネを出すだけで汗を流さない国」という諸外国の認識と影響は、それが事実に基づくだけに、外務省や政府を中心に深刻なトラウマを植え付けた。
これが今に至る集団安保政策に舵を切るきっかけとなっており、今でも外務省の官僚は「アレは堪えた」とことある毎に語っている。

誤解なきように記すが、「カネを出すだけで汗を流さない国」というのは実際に命を懸けて戦った諸国からすると至極まっとうな批判である。
アメリカやヨーロッパ、アラブ諸国でも、人の命が何より尊いという認識に変わりはない。しかし各国では、それを認めたうえで、その尊い命を社会のため・人々のために差し出す行為はさらに尊いとされるのだ。
そうした「社会に対する使命感」を見せる多国籍軍の横で、カネを投げつけて傭兵のように扱うという態度をとった日本が非難を浴びたのは当然といえる。
日本の軍事に対する姿勢が世界の常識から大きく外れているということは、国際社会で孤立しないために、そして国際社会を理解するために、常に留意する必要があるだろう。


余談

『RPG伝説ヘポイ』にフセイン子(元スモウトリ)やキューピー鈴木なるパロディキャラが登場した事もある。当時は湾岸戦争が真っ最中だったので実にタイムリーなパロネタであった。

当時放送されていた『ふしぎの海のナディア』は湾岸戦争の影響で休止が多かったとされているが、実際戦争関係のニュースで休止となったのは1回のみである。
一方、テレビ東京のアニメ『楽しいムーミン一家』は放送時刻が開戦直後だったにも予定通り放送した。

ちなみに宍戸錠の愛犬の名前はサダム・フセイン子だったりする(現在は他界)。実に悪趣味なネーミングである。

爆撃された建物から外装が焼けただれたゲームボーイが見つかり、液晶を取り替えただけで再起動したという任天堂の凄さ・ゲームボーイの頑丈さを物語った逸話はあまりにも有名。湾岸戦争では米軍の兵士たちにゲームボーイが配られていた。

かの有名な漫才コンビ『夢路いとし・喜味こいし』の代表作とも言える演目の一つが、夫婦喧嘩をこれに見立てた『我が家の湾岸戦争』。
お椀がガンッでワンガン戦争」という入りからお察しの通り、最初から最後まで湾岸戦争のキーワードにかけたダジャレまみれの笑い話なのだが、太平洋戦争経験者であるご両人だからこそ許されて深みの出るネタでもある。

また『新機動戦記ガンダムW』にも影響を与えており、劇中に出てくるモビルドールは湾岸戦争で映しだされていた爆撃シーンの中継などを前述のモニター越しで見ていた視聴者に対する皮肉が込められており戦争の重たさを伝えている。

この湾岸戦争においてはベトナム戦争における陸軍と空軍のB-52に対する見解が大きく衝突した。総司令官のシュワルツコフは歩兵畑だったこともありB-52を無敵の存在と思っていた。
逆に空軍部隊司令官のホーナーはラインバッカーⅡ作戦で地対空ミサイル220発によってB-52が6機撃墜されたことを念頭に置いており、的になるだけだと考えていた。
なお、この地対空ミサイルはSA-2と呼ばれ、このようなレーダー誘導式地対空ミサイルの発射機をイラクは400基以上配備していた。

多国籍軍の機甲部隊は数千両、支援車両も含めば万に達した。この移動で最も苦労させたのは戦車である。米軍は1万両規模の戦車を
持っているにもかかわらず、戦車を運ぶ専用トレーラーはかき集めても750両しかなかったからだ。逆にイラク軍は3000両保有していた。
質の面でもイラクのトレーラーの主力はT-72を完全武装、しかも乗員も休めるものだが、アメリカのそれはM1戦車の装備品を外さないと重量オーバーになる代物だった。
インフラの乏しい砂漠戦で戦車を縦横無尽に動かすにはトレーラーは欠かせないのだが、アメリカは冷戦期ではヨーロッパで戦闘することを想定したので
トレーラーの数が少なかったのだ。中東ではイスラエルも全戦車を運べるだけのトレーラーを持っている。だからこそ第3次中東戦争で戦車戦で圧勝できた。

アメリカ軍が保有していた戦車にM1戦車があるが、この戦車は大きな欠陥を持っていた。
105mmライフル砲という貧弱な火力と、乗員が防護服を着て操縦することを強制する個人NBC防護装置という意味不明なNBC対策の2つだった。
後のM1A1戦車はそれらを改善したがM1は数年間量産され続けたため、大量のM1が残ってしまった。結局戦争に間に合わせるために
このM1戦車の改良のためサウジアラビアのダンマン港に改修工場を建設し、M1からM1A1への転換訓練を行うためのチームもサウジに派遣した。
多くの部隊は戦争前にM1A1に乗り換えられたが、第1歩兵師団など一部の部隊はM1のままだった。

空爆を耐えるイラク軍に対しアメリカは核攻撃のプランも検討したが、その内容は
1個戦車師団に重大な損害を与えるために戦術核を40発炸裂させる」というものだった。
なお共和国親衛隊は戦車師団だけで3個持っている。

ちなみに現状戦艦(ミズーリ・ウィスコンシン)が参加した最後の戦争である。この後2艦とも退役しており
イギリス軍のロイヤル・ソヴリン級(諸説あり)から始まった戦艦は(除籍年で言えば)第二次世界大戦中に建造されたアメリカ軍のアイオワ級によって終わった。

関連映画
  • ガルフ・ウォー
  • クライシス・オブ・アメリカ
  • ジャーヘッド
  • スリー・キングス
  • 戦火の勇気
  • ライブ・フロム・バグダッド 湾岸戦争最前線




追記・修正は油にまみれた水鳥を見てからお願いします。




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最終更新:2024年02月21日 12:08

*1 1989年にイラクの軍事的圧力に折れる形で不可侵条約と軍事協定を結んでいるが、これはサウジが有する対イラク債務の事実上の縮小も意味していた

*2 両者の違いは武装。BMPは機関砲、APCは機関銃

*3 これだけで記事一本作れるレベル

*4 少数精鋭兵力で一気に敵を叩けば戦争は早く終わって安上がり、という「ラムズフェルド=ドクトリン」が大きな要因だった。確かに戦争を終わらせるまでなら正しいだろうが、その後の占領政策にはやはり頭数が必要だったのだ。そこを勘違いして兵力を出し渋った結果、早期に混乱を収めるチャンスを逃してしまったのである。