山内氏(土佐)

登録日:2013/11/06(水) 22:39:13
更新日:2024/02/04 Sun 18:54:54
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山内氏(土佐)とは山内一豊を祖とする、土佐国(現在の高知県)全領を支配した大名。ここではその家臣である土佐上士のことも語る。
戦国時代は織田信長の家臣でその後、遠江国(現在の静岡県西部)掛川5万9千石を領する大名だったが、
1600年の関ヶ原の戦い徳川家康の東軍に従い、戦後功により土佐藩9万7000石(当時の石高)の大藩を得る。
その後、新田開発などの財政発展により得た石高20.7万石(内高50万石近く)の財政の安定した藩としての舵を取りこなしてゆき、
その徳川への忠誠ゆえに土佐を総べる「土佐守」の官位を頂き、前田・伊達・毛利・島津ら戦国武将の末裔たち共々「松平」の姓も与えられた。

…とここまで聞けばただの成功した戦国武将の一族である。

しかし地元高知県の評判は悪いと言われている。

理由は山内家による土佐統治開始時に行われた旧長宗我部家臣との対立と、その後江戸時代を通じて行われた「郷士」制度による差別、
それらを背景にした幕末の血みどろの歴史によるものである。

それでは具体的に何が起こったか、時系列順に見ていこう。

最初に山内氏が土佐藩を拝領したときの状況は厳しいものであった。
家康の旧領であった遠江から異動した土佐は石高だけは上なもののど田舎の陸の孤島であり、
旧主長宗我部の家臣団は一領具足と呼ばれる半農半武士の集団が中心であったため、旧主への忠誠心が強く、
何度も一揆、反乱を起こしているという難しい場所であった。
しかも江戸時代初期で幕府もピリピリしている為、統治できなければ改易の憂き目に合うことも十分に考えられた。
(実際一揆やら反乱を起こされて改易された藩は江戸時代結構多い)

それゆえに初代藩主である山内一豊は強行策を採った。
ちなみに山内一豊はバリバリの武闘派であり、若いころ頬に矢が刺さっても戦い続けたという逸話を持っている。

  • 1601年3月、旧長宗我部家臣が相撲好きなことに着目、国中にお触れを出して、郡ごとの勝ち抜き戦をやらせて集めた70余名を種崎海岸に集め、
    鉄砲隊でことごとく討ちとり首は浜に晒す(種崎の虐殺)
    戦国時代の残虐行為についてまとめたある本では有名な戦国大名が並ぶ中、山内一豊のこの残虐行為が載っており、漫画『風雲児たち』では漫画化された。

これにより指導者を失った旧長宗我部家臣は組織だった抵抗をすることが出来なくなっていく。
そこで次に一豊は懐柔策として旧長宗我部家臣の主戦力である一領具足の取り込みに掛かる。

  • 1613年、旧長曽我部家臣の不満を解消し体制に組込ませるため、また新田開発による増収を狙い郷士*1制度を作成開始。
    ちなみに一豊の元々の部下が主としてなる政務を担当する侍を上士といった。
    しかし土佐藩の制度は差別が厳しく、
    「下士たちは郭中に住むのを禁止、老若男女病弱問わず日傘や下駄を禁止。衣服の質も差をつけ、雨の日にでも上士の前では土下座しろ」
    「上士の行事には絶対参加。たとえ親が死んでも休みは与えない」「上士に郷士からの無礼があれば切り捨て御免も認める」
    「政治は勿論、意見を奉ることも許さない(例外は野中兼山追放の一件のみ)」
    といった不公平なものであった。

このように上士と比較すると低い身分であったがそれでも士分に変わりはなく、
時代が進むと郷士の身分を譲渡するようにもなり次第に、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(郷士の多様化)。
ちなみに坂本竜馬の家も商人から郷士となった家系である。
元禄期(1688年~1704年)には郷士も公役に就くことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきた。

しかし水面下では対立はあったようで、政情が不安定となる幕末では郷士と上士・藩との対立が目立ってくる。

  • 1861年3月、井口村刃傷事件発生。些細なトラブルにより郷士一人、上士二人が死亡。上士に温情・郷士に理不尽な判決が下された。

  • 井口村事件から半年後に郷士を中心として結成された「土佐勤王党」は当時の参政である吉田東洋に意見を尽く拒否される。
    その理不尽さと今までの遺恨、そして政治事情により後に吉田東洋は郷士に暗殺される。
    なお吉田東洋との縁で世に出てきたのが後藤象二郎や岩崎弥太郎であり、後藤は後に勤王党断罪を藩に任された。

  • その反体制的活動と時勢、何より佐幕派であった前主山内容堂により禁門の変以降勤王党は徹底的に弾圧される
    ちなみに勤王党は山内容堂の意志を継ぐために結成されたものである。もう意味がわからない。
    その時殆どの勤王党員や郷士が拷問や蹂躙を受け死者続出。1年後には党首武市半平太も刑死、他の勤王派も全滅させられる。

  • 武市を救おうとした野根山23志が北川村野根山に集まり決起したが、藩庁に鎮圧され全員斬首された。

これらの一連の状況は「竜馬がゆく」、「お〜い竜馬!」、「龍馬伝」等において、フィクションも多数あるにせよ端的に表されている。

(なお「お~い竜馬!」には山内氏や上士の子孫から「史実と違う」「いくらなんでも残虐に描きすぎだ」と抗議がされている)

結局土佐藩はその後、元郷士の坂本龍馬のコネを用いて薩長と協力し、
大政奉還へと動くことになり薩長土肥の一角というポジションで明治政府にもいくらかのポストを獲得して廃藩置県によりその歴史を閉じることになる。
またこの時期上士サイドから後藤象二郎や板垣退助、吉田・後藤等との接点から岩崎弥太郎、脱藩組から坂本龍馬や中岡慎太郎など著名な人材が輩出されている。

郷士と上士の対立があったにせよ、
水戸で発生した天狗党の乱のようにやたら貴重な人材を失うだけで新政府の中枢にポストを獲得できなかったよりはましだったのかもしれない……。

この対立は江戸幕府の崩壊と廃藩置県による土佐藩自体の消滅と、第一次・二次世界大戦を挟む混乱の時代の中で有耶無耶のうちに無くなり、
郷士側の支配者側に対する悪感情だけが未だに残っているらしい。

内部の対立があったとはいえ、本丸の建物が完全に残っている唯一の城・高知城(江戸時代中期に一度焼失したが)を築くなど、
江戸時代を最後まで切り抜けたその政治手腕は高く、暗君は1人もいなかった。
(事実山内氏は江戸時代通じて土佐一国を治めていたことからうかがえる)

しかしその政策に非人道なものがあり、江戸時代を通じてそれが改められなかったことや、
坂本竜馬を描く作品では悪者にされがちなことから評判が悪くなってしまっている。

明治以降は華族・侯爵の位を与えられ、功臣ともに東京に移住し今も健在である。

封建制度が終わりを告げ、廃藩置県が行われてもなお土佐藩の領主を名乗り、家宝を相続税を理由に郷土資料館に押しt…売却し、
まさかの長宗我部氏の子孫と「一緒」に表敬訪問している。

☆代表的人物
  • 山内一豊
土佐藩を作った始祖。だが大河ドラマにより妻の方が有名であり、「内助の功」の代表例とされる場合が多い。
地元では上記の理由から圧倒的不人気。暗殺を恐れ5人の影武者をおいていたことからもそれがうかがえる。
(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例である)
え、大河ドラマ? あんなの大嘘に決まってるだろjk
一応戦国大戦では収める前ということもあり「未熟だが野心あふれる若武者」→「出世街道を愚直に進む荒武者」という風にそれなりにマシに書かれており、スペックもかなりのもの。
また妻の千代とも基本的に相性良くされている。その妻の対象が広すぎて最善ではないというオチが付くが。

  • 山内容堂
一応藩政改革などの断行力も高く、幕末四賢公に数えられる。なお「容堂」は安政の大獄で隠居させられた後名乗った号であり、本名は「豊信」
元は藩主につける位置にいなかったが、幕府の後押しもあって就任。それ故徳川家が潰れることには最後まで反対した。また勤王党の活動を嫌悪・弾圧した。
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を揶揄されている。
虐殺とちょっと頭がアレな言動を取ることが多く、地元は勿論、賢公の中ですら扱いが低い。
また自身を織田信長と称されたがっていたが、差別なく才ある者を重宝した信長とは明らかに異なっている。
「酔えば勤王、覚めれば佐幕」・「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」で有名。

  • 山内豊秋
初代から数えて18代目。
県民との感情的しこりを気にしていたというが、目だった行動はしていない。
家宝を借金返済として県に売却したがその際に「子供に残せるものがないから、武士の情けで借金を肩代わりして欲しい」と泣きついたとか。
土佐藩主の名乗りを放棄することを肩代わり元に約束したらしいが、あっさりと破られた。


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最終更新:2024年02月04日 18:54

*1 平時に土地を持ち耕作し、戦時に兵となる侍と農民の中間のようなもの、下士ともいう