井川慶

登録日:2010/03/01 Mon 00:02:09
更新日:2024/02/21 Wed 07:33:23
所要時間:約 8 分で読めます





兵庫ブルーサンダース(独立リーグ)に所属する投手にして阪神タイガースの元エースピッチャー。

1979年7月13日生まれ
茨城県東茨城郡大洗町出身
左投左打


【プレースタイル・性格】
最速151km/hの速球とスライダー、かつて魔球と形容されたフォークボールのように落ちるサークルチェンジが武器で、ツーシームやカーブも混ぜる。
日本ではほぼ毎年200イニングを投げていたスタミナも彼の武器である。
ヤンキース移籍後はカットボールも投げるようになった。
MLBでは炎上ばかりする印象だが意外と奪三振が多かったりする。

体のケアには敏感で、毎試合後は深夜まで入念な体のケアを行い、食事はコンディションを保つため専属の料理人に作ってもらっていた。アルコール類にコーヒー、炭酸飲料も口にしない。

茨城県出身だが納豆は苦手で、ヤンキース入団時に松井秀喜から「アメリカでも納豆は食べれる」と言われた際には苦い顔をした。

サッカー好きであり鹿島アントラーズのファンだったが、阪神入団後はガンバ大阪のファンとなった。
ラジコンマニアとして知られるが将棋も初段の実力を持ち、2007年には日本将棋連盟に「将棋親善大使」に任命された。
ゲームも好んでおり、阪神時代は甲子園球場近くのゲーム屋で度々買う姿が目撃されていたという。アーケードのサッカーゲームWCCFでは関東チャンピオンになったこともある(野球の練習はどうした)。

【阪神時代】
高校時代は甲子園出場こそできなかったが「東のドクターK」として高い評価を受け、ドラフト2位指名で阪神タイガースに入団。

2年目にプロ初先発での初勝利を挙げるが、なかなか一軍に定着できないシーズンが続いていた。

2001年は野村克也監督から先発に抜擢され、4月24日の巨人戦でプロ入り初完投勝利。監督推薦によりオールスター出場を果たす。最終的に防御率はリーグ2位の2.67と好成績を残したが、打線の援護がなく9勝13敗と負け越した。

2002年は開幕投手を務め、チーム12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。夏場に調子を落とすも、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。

2003年も開幕投手を任され黒星を喫したものの、6・7月に4戦連続完投勝利、その後も勝ち星を重ね12連勝を記録した。連勝中はゲンかつぎとして髪を切らなかったため、約3か月間も髪を伸ばしっぱなしになりアフロヘアーのような髪型になった。結果的にセ・リーグでは1999年の上原浩治以来の20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導き沢村賞を獲得。

2004年10月4日の広島戦でノーヒットノーランを達成。この年のオフにポスティングでのメジャー移籍を希望するが交渉は決裂。以降毎年オフに球団に対しポスティングによるメジャー移籍を希望することになった。

2005年8月23日の広島戦で1000投球回を達成。
この時井川が連続三振を奪った勢いで捕手の矢野輝弘が記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらうという珍事があった。
この年は味方が先制、若しくは逆転した直後にまた逆転されるという傾向もしばしば見られ2軍落ちも経験した。

2006年には歴代5位の早さでの1000奪三振と5年連続二桁勝利を達成。球団も井川の貢献を考慮し3年越しの希望であったメジャー移籍を容認し、同年11月10日にポスティングによるメジャー挑戦を表明。11月29日にニューヨーク・ヤンキースが2600万194ドル(約30億円)で落札。5年2000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高での契約が成立した。渡米直前の2007年2月には結婚を発表。

スポーツニュースでは江川卓に「メジャー移籍にあたり目標とする選手は誰か」と質問され、極めて真面目な顔で「ロナウジーニョ」と答えた。他には2003年優勝祝勝会を途中早退で翌日カープ戦の登板に備える。結果は2時間12分で完封勝利。
この図太い神経と2005年を除いて毎年200イニング以上投げたタフさから、同年にヤンキースのライバル球団であるレッドソックスにポスティング移籍した松坂大輔以上の働きを期待された。

しかし、3月のメジャーキャンプからその期待は徐々に影を帯び始める…。


【ヤンキース時代】
井川獲得は当時のヤンキースGM補佐の強い進言があって実現し、そのGM補佐がキャンプを視察に訪れた際に井川が初ブルペンに入った時のことだった。

井川を高く買っていたGM補佐は数々の名投手の球を受けたベテランのブルペン捕手に井川の球を受けてほしいと声をかける。


GM補佐「ものすごいチェンジアップを投げる奴がいる。受けてくれないか?」

ブルペン捕手「おk」


──投球練習終了


GM補佐「どうだった?すごい投手だろ!」

ブルペン捕手「…正直に言っていい?」

GM補佐「?」

ブルペン捕手「ダメだね全然ダメ。変化球にキレがない。何よりコントロールが酷すぎる

GM補佐「バカな!?」



その後4月7日のオリオールズ戦でメジャー初登板。5回8安打4四死球2本塁打7失点という悲惨な内容で降板。
4月18日のインディアンス戦で6回5安打5奪三振2失点でメジャー初勝利。
しかし投球フォームや制球が安定せず中継ぎへ降格。
4月28日のレッドソックス戦で、先発投手が負傷降板した後の緊急登板ながら6回無失点と好リリーフしメジャー2勝目を挙げた。

この好投が認められ先発復帰するもマイナーへの降格とメジャー昇格を繰り返し、9月25日に再昇格した際には先発し5回を0点に抑えたが勝ち星はつかなかった。
結局この年は2勝3敗、防御率6.25と散々な結果に終わった。


2008年は前シーズンの不振により開幕前から先発としての構想には入ってなく、オープン戦では中継ぎとしての起用が続き、メジャー2年目の開幕はマイナーで迎えることとなった。

5月9日にメジャー昇格し先発したが、3回を11安打6失点で敗戦投手となった。
その後も降格と昇格を繰り返し、遂にはメジャー契約を解除され40人ロースターから外される。
結局この年はメジャーでの勝ち星を挙げることができなかったが、3Aでは14勝6敗の好成績を残し3Aのベストメンバーに選ばれる。

2009年は春季キャンプに招待選手として参加し、オープン戦では15回3分の1を投げて1失点とまずまずの出来だったが、マイナー行きを通告され2年連続で開幕をマイナーで迎えることとなった。

マイナーではシーズン前半は安定した成績を残したが、シーズン後半ではホームラン乱発など打ち込まれることが多く防御率が悪化した。最終的には10勝8敗・防御率4.15とまずまずの数値を残し、3Aスクラントンでの歴代チームベスト記録を更新する。


通常マイナーで好成績を挙げればメジャーでチャンスを与えられるものだが、強力な先発陣と将来を担う若手でいっぱいのリリーフ陣を擁する名門ヤンキース投手陣の前では30歳の投手はお呼びでなかった。


地元紙には「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」という記事において栄えあるワースト1位にノミネートされ、かつてエース級の働きを期待された左腕には汚名ばかりが授けられていく。

ヤンキースファンの間では「マイナー(3A)以上メジャー以下」という意味で「AAAAクラスの選手」と呼ばれ、日本でもメジャーで活躍できる望みどころかすでに日本でも活躍は無いとの見方が大半を占める井川だが、実はその眼前には一筋の光明が差していた。


それは井川の「芯でとらえられる率(Hard Hit Average)」がメジャーでもトップクラスの数値を記録していることだった。
この率はメジャー史上最高のクローザーと呼ばれるマリアーノ・リベラの.131がダントツで低いが、井川はチームでは彼に次いで2位の.196を記録しており、球威はトップレベルであることが示された。

この数字が2割を切る投手はメジャー全体でも10人といなく、かの大投手ロジャー・クレメンスでさえ.204がベストであった。

この指摘により「ヤンキース以外ならメジャーで活躍できる投手」と評価する専門家もいるが、マイナー選手にしては高年俸(400万ドル)であることがネックとなり、どの球団ともトレードが成立しない。
中でもメジャー屈指の投手有利の本拠地を持つサンディエゴ・パドレスが「井川の残り年俸を全て引き継ぐ形で獲得したい」と積極的な姿勢を示したこともあったが、ヤンキース側が調子に乗ってポスティング金の分担まで要求したため破談となった。



2010年は招待選手としてメジャーのキャンプに参加。
首脳陣は昨季3Aで左打者を.189に抑えた実績に注目し、シチュエーショナル・レフティとして試そうとしていたが、オープン戦で左打者から満塁ホームランを浴び、2回2/3を投げただけでマイナー通告を受ける。
3Aでは先発から敗戦処理まで全てをこなすが、制球が定まらない日が続いている。


2012年シーズン開幕前にオリックスに入団決定し日本球界に復帰となった。
全盛期の姿はなく、怪我や若手の台頭により二軍をいったりきたりが続く日々。(2013年の数字はそう悪くもないが。)
2015年には二軍ですら不振を極め、戦力外通告を受ける。


2016年は自主トレと活躍の場探しに終始し、オフシーズンにようやく兵庫ブルーサンダーズと練習生契約を結んだ。


2017年には兵庫に支配下登録され、関西独立リーグとはいえ11勝0敗、防御率1.10、奪三振94という元プロのエースに相応しい存在感を示した。

シーズン終了後には退団し、以降プロ復帰を目指してトレーニングしたり興行にに参加したりの日々が続いている。
ちなみに収入はない模様。

【ドケチ伝説】
球界きっての変人、マイペースで知られ、ゲーム、パソコン等の趣味には惜しみなく金をつぎ込む一方、それ以外の経費は徹底して節約する吝嗇家であった。
  • 球団から支給されたグリーン車の切符を金券ショップに売り、自由席切符を購入して差額を貯金。
  • 1億円プレイヤーになっても、キャンプには3万円しか持っていかない。
  • 移動はタクシーではなく電車。
  • 飲み歩きはせず、オフの日は寮にこもってゲームかビデオを見る。
  • 普段着はジャージ。
  • 寮費が安い、食費が浮くという理由から、年俸が上がってもなかなか寮から出ていかない。
  • 挙句の果てに「甲子園の駐車場にプレハブを建てて住みたい」と言い出す。
  • メジャーから日本球界に復帰した時も、家が決まるまでオリックスの寮に入寮。「僕は寮が大好きです」と満面の笑顔を見せる。


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最終更新:2024年02月21日 07:33